近々、退職される職員さんがいらっしゃいます。直接お話しをお聞きしていませんが、職場での「人間関係」が ことのはじまり、きっかけ だそうです。お勤めくださって五年ほどになるのかしら、とても残念です、ほんとに申し訳ありません。こんなことを書けば、どなたのことをいっているのか分かってしまうでしょ、とお𠮟りを受けてしまいそうですが、ここでは一般論としてのお話しであるとご理解ください。

 

ここでも、お釈迦さまのおことばをご紹介いたします。

 

他(ひと)の過(あやま)ちを 見るなかれ

他の作(な)さざるを 責むるなかれ

おのれが 何を いかになせしかを 自らに問うべし 『法句経』第50偈

 

お釈迦さまの意図は、まずは自己の向上、研鑚に努めよ、ということ。そして、自己を研鑚に努めることが、周りのお方の幸せにつながる、と私たちも考えます。自己研鑽、修行を「生活」とする出家者は、自らの修行をよりよく、快適に行うために集団を組織しました。(私も、仏教の学習を通しての自己研鑚を遂行するためにも、「役僧」としてお寺に属しています。)そして組織として活動する、円滑に運営するためには、おのずから最小限のルールが、少なければ少ない方がよい、必要となります。

 

ルールに反する、組織を円滑に運営するために支障があると判断された場合には、私も、かつて注意を受けました。(でも自分は間違っていなかったと、いまでも思っています。)

 

注意をうけて、怒ってはいけません(『法句経』第76偈を参照)。上下関係があるから、言い返せないのはおかしい という考えもいまでは許容されねばなりませんが、まずは自らの向上、スキル・アップにつなげるためにも、素直に受け入れてほしいとお願いしたいのです。

 

あまりにも目に余ると考えてしまい、注意をすることになった場合でも、言い方や、その状況などに十分気を付けなければなりません。このくらいなら言っても大丈夫と考えるのは、自らの基準にしたがってのことだけなのです。自らの考えと他の人の考え、基準が違って当然なのです。相手を理解すること、受けいれた上で考えることは、自らの向上、研鑚につながります。

 

もうすぐ、その職員さんは退職されますが、次の職場でも自己の良きキャラクターを活かせるようお祈りいたします。またこれからもお寺で勤務される職員さんも、自分のせいで辞めてしまったのだと自らを責めることなく、自らの向上、研鑚に励んでください。そのことがお寺の運営のためにも寄与するのです。そして、またお寺でお勤めしたいなあとお考えが生じた場合は、どうぞお申し出ください。自らを活かせる場、向上、研鑚するための場として、お寺はあり、集団(家庭、社会)があるのですから。 合掌