本日は15時からご法事がありました。14時の予定でしたが、午前中、急なお葬儀が入ったので、1時間遅らせていただきました。勝手なことで申し訳ありませんでした。

 

ご法事は、88歳のお母さまの四十九日満中陰でした。お母さまは必ずしも良い妻、賢い母ではなかったとのことですが、お父さまは、そのお母さまの可愛らしい笑顔・仕草、良いところひとつ、ふたつほどを知っていて、ご伴侶さまを恕し、思いやり、深く愛していました、ということなど、いろいろお話ししてくださいました。そのあと娘さまは唐突に、本日四十九日ですから、エンマさまからの裁定が決まるのですね、心配そうにおっしゃいました。なるほど、皆さんは普通そのように考えているのですね。死後四十九日間の七日ごとに、この世での行いについての吟味があり、四十九日目にはエンマさまからのご裁定が下り、次に行くべき境遇が決まると考えているようです。

 

ひさしぶりに、ひろさちや『死後の世界の観光案内』ごま書房1983の一節を思い出しました。そこには「『むこうに六つの鳥居が見えるだろう』と泰山王は死者に指差す。『あの鳥居は六つの世界への入り口なのだ』」、「死者に自分で自分の運命を選ばせるというものです」、冥途は「ただ通過するだけの土地です」、とあり、エンマさまだって「『(お前は)地獄行きに決定!』『餓鬼となるべし!』そんな無慈悲な判決」はしたくないのです。文献的な出典などはぬきにしても、きわめて合理的な考え方です。

 

お母さまは、ご自身「私は金運がある」とおっしゃって、宝くじを買うのを楽しみにしていたそうです。一方、お父さまは、お母さまにいわせれば「貧乏くじ」とのこと。だったらお母さまは、お父さまとは会えないのかしら、とのご心配です。でも大丈夫。いまお父さまの待つ極楽世界には七宝(しっぽう)の池があり、池の底には、金の砂のみが敷かれている。金、銀、瑠璃、玻璃、車璖、赤珠、瑪瑙によって美しく飾られた高殿があるとのこと(『阿弥陀経』)。お母さまもきっと、気に入られ、心豊かに過ごしていただくことができますよ、と申し上げました。

 

私たちはその時がきたら、次の世を自分で決めなければならないという、「次の世は自分自身が決める」という考え方は合理的でもあり、とてもシビアな、こわいことなのです。また視点を変えれば、私たちは好き好んで、いまこのような世に暮らしていることにもなります。喧嘩好きなお方は喧嘩好きなお方同士が集まって生きている。だから勝者も敗者も心休まるときがない。金銭が好きなお方は金銭が好きなお方同士が集まって生きている。だからある一部の人以外、多くの皆は困窮している、ということなのです。でも周りのお方を思いやる気持ち、周りにお方の良いところを見つける努力は、読経の功徳とともに、この世がよくなるための大きな力であることは信じています。お母さまも、お父さまに愛されて、幸せだったのでしょうね。(なんだか、支離滅裂なお話しになってしまいました。)合掌