本日午前中、動物生類のご供養がありました。飼い猫さんのお葬儀です。飼い主さんのお宅で生まれて、18年間飼い主さんご家族と一緒に過ごされたとのこと。ロシアンブルー、きれいな男(オス)の猫さんでした。仏教僧侶としての私などは、動物生類のご供養は『梵網経』四十八軽戒[45]不化衆生戒の所説「一切の畜生を見ては、応に心に念じ、口に言ふべし。『汝はこれ畜生、菩提心を発せ』と」を念頭に行っています。

 

では菩提心を発してどうなるの、といえば、次の世には、お人として生まれること(転生すること)が願われるのです。この地球においてさえも、いのちの形はいろいろで、無数です。でもみな同じ(等価値、代わることのできない)いのちをもらって生きていることには変わらないと考えています。ですから、この世で人であっても、次の世でも人間である保証はないといえば、そうなのかなと思います。

 

では、お人(人間)が願われるいのちの形、生存であるのかといえば、私たちならそう考えます。最も自由度が高い、一生の過ごし方を自ら選ぶことができるのは、人としての生存であると考えるからです。一番のメリットは仏法を学べるということです。(人、天、餓鬼、畜生、地獄、阿修羅)

 

輪廻転生って、ほんとにあるのという問いには答えられませんが、いのちにはどんな形があるのか、いのちはどのようにつながっていくのかということは学ぶことはできます。(業の理論

 

中有という、次の世に移行する期間があるとして(仏教においても中有の存在を認める部派と認めない部派があるとのことです)、中有の期間にとるいのちの姿は、次の世に生まれる形・形状をしているといいます。だとすれば、本日ご供養させていただいた猫さんは、もうすでにお人のお姿をしているでしょうか。(四十九日

 

ここでは何一つ文献的根拠を示さずのお話しでしたが、いままでそのように習ったかなと思っていますし、自分でも納得のいくものであると考えています。もし異なる考えがあれば、耳を傾けます。合掌