お戒名の一文字として、僧侶が安心して、そしてよく用いる([小声]どなたにも似合う、といったらごめんなさいませ)漢字に、「徳」「誠」「優」などなどがあります。「和」もそのひとつです。

 

手元の『福武国語辞典』には、その意味として、1)おだやか、あたたか、2)仲良くする、平らか、3)調子を合わせる、4)ほどよい、あえる、5)加えた値、6)日本、日本の、その用例・熟語とともに示されています。

 

ここでは、仏典に表れる「和」とその類語の代表的な用例についてご紹介するものなのですが、それは「和」という漢字の概念は「仏教そのものの思想的性格よりも、中国的ないし東アジア的な精神風土に起因するもののように思われる」(木村清孝「仏教と『和』の思想」『国際仏教学大学院大学研究紀要』第10号2006)とするからなのです。なお本論文は、『憲法十七条』第一条にある「和を以って貴しと為す」の意味を考察を目的とするものですが、私のいまの興味は「仏典に表れる「和」、およびその類語」に限られます。また本論文で取り上げられる「和」の類語を含めて、たとえば中村元『仏教語大辞典』東京書籍(19981年版)では、和敬、和雅、和願、和願愛語、和光同塵、和合、和合僧、和色、和順、和忍、柔和(「柔和質直者」『法華経』如来寿量品。「忍辱柔和」)、調和(じょうわ)などの項目があります。(「平和」については、真諦三蔵訳『摂大乗論』巻中「復能生自他平和事故称提」などわずか)

 

仏教教団の理想的状態としての「和合」

「諸仏興出楽 諸法堪受楽 衆僧亦楽 和則常有楽」竺仏念訳(398-399)『出曜経』27「楽品」(大正4、755c.仏たちが世に出られるのは楽しい。[仏たちの]説法を聞けるのは楽しい。サンガの「和」もまた楽しい。「和」すれば、常に[そこには]楽しみがある。)『出曜経』は、パーリ仏典『ダンマパダ』(法句経)に対応し、この偈は『倶舎論』にも引用されます。

 

『法句経』The Dhammapada, XIV, Buddhavaggo, G.194 (1914, PTS, p.28)

『倶舎論』Abhidharma-kośa bhāṣya of Vasubandhu, ed. by P. Pradhan, Patna, 1967, p.7: sukhā saghasya sāmagrī samagrānā tapa sukham (サンガがまとまっていること(Chin.和合)は安楽であり、みなが一緒に修行に励んでいること(玄奘訳.同修勇進)は安楽である。)Cf.真諦訳『倶舎論釈』1(大正29、163b)、玄奘訳『倶舎論』1(大正29、2c)

義浄(635-713)訳『根本薩婆多部律摂』「諸仏出現於世楽 演説微妙正法楽 僧伽一心同見(心を一つにし、考えを同じくしている楽 和合倶修勇進楽」(大正24、525b)

 

サンガの和合にとって、「戒律」は不可欠であるとされます。(仏陀什等訳『弥沙塞部和ケイ五分律』「以十利故、為諸比丘結戒。何等為十。所謂僧伽和合故。摂僧故(以下、略)」大正22、3b)

 

八正道の正思惟(正しく思念すること)の説明としての「和敬」

四聖諦のひとつ、道諦の内容は聖なる八正道(aryastangamarga)です。八正道については世間的な解釈と出世間的な解釈が行われます。以下は、その正思惟に対する世間的な解釈です。

 

「思学問、思和敬、思誡慎、思無害、是為世間正思」後漢・支曜訳『阿那律八念経』(大正1、836b.学ぶことを思念し、和み敬うことを思念し、慎み深く倫理的に生きることを思念し、生き物を害さないことを思念する。これが世間的な[意味での]正思である。)

 

如来滅後の末世、安楽行に住する菩薩の行いとしての「和顔」

次は『法華経』「安楽行品」第十四より、口安楽行の一節です。

「若有比丘 及比丘尼 諸優婆塞 及優婆夷 国王王子 群臣士民 以微妙義 和顔為説 (若有難問 義随而答)」羅什訳『法華経』5(大正9、38b. もしも比丘および比丘尼、男の信者ウパーサカおよび女の信者ウパーシカ-、国王・王子、大臣・家来・庶民がいれば、奥深い教えを和やかな顔でanabhyasūyat[かれらの]ために説こう。)

 

無財の七施のひとつとしての「和顔悦色」

「和願」を含む四字熟語にいくつかがあります。まずは和顔悦色。それは無財の七施のひとつであり、無財の七施とは、眼施、和顔悦色施、言辞施、身施、心施、床座施、房舎施をいいます。『雑宝蔵経』(大正4、479b. Web版新纂浄土宗大辞典参照)

 

和やかな面持ち、やさしくことばをかけること「和願愛語」

次に、よく知られた「和顔愛語」。「無有虚偽諂曲、和顔愛語」伝・康僧鎧訳『無量寿経』上(大正12、269c. 虚偽・諂曲の心有ること無く、和顔愛語して)Cf. 藤田宏達『梵文和訳 無量寿経・阿弥陀経』法蔵館1975: sakhilo madhuraḥ priyālāpo なごやかで、[声が]甘く、愛らしく語り)

 

仏教的解釈としての「和光同塵」 

「是人、為欲調伏如是諸比丘故、與共和光、不同其塵」北涼・曇無シン(5世紀前半)訳『大般涅槃経』6(大正12、399c.この人は、上で述べたような[正法に外れた]比丘たちを調伏しようとして、ともに自らの[徳の]光を和らげ[かれらと接するが]、[世俗の]塵には同化しない。)

「和光同塵」は『老子』に基づく熟語であり、もともと「[道そのものが]自らの優れたはたらき(= 光)を中和して(= 隠して)、世俗(= 塵)に同化する」ということなのですが、ここでは「(大乗菩薩は)俗世にあっても、煩悩には汚せられない」という意味で用いられているようです。

 

以上が、木村清孝「仏教と『和』の思想」において考察される「仏典に表れる「和」とその類語」です。それらは「倫理的な様態に関わる仏教の『和』の原義」であり、平和の理想につながる、と評価されています。それを前提として、本論文は『憲法十七条』との関連を考察します。その結論、あるいは提言として、仏典に表れる「和」の思想を「実現するには、サンガにおける「結戒」(、つまり戒律)に相当する、ニユヴァーサルな倫理的規範が不可欠」であるということ、そして「国際サンガ」の形成の必要性にあるということになります。私たちの求める「和」とは、生物・無生物を問わず、すべての存在をふくむ共同体をすこやかにまもり、そしてそのうえで生きているという自制的意識(「戒律」)のもとで成り立つものなのでしょうか。 

 

お戒名に「和」にお付けするときは、以上の考察の意味を忘れないでお授けいたします。 合掌