お寺には、皆それぞれの思いをもってご来寺されます。
本日朝のお勤めに、お一人のご参加があり、一緒に『般若心経』『十句観音経』などをお唱えしました。読経の後、その『十句観音経』にある「常楽我浄」ということばについてお話しをいたしました。
常楽我浄について、『望月仏教大辞典』では、「常楽我浄を乃ち名づけて大涅槃と爲すことを得るなり」(『大般涅槃経』第二十三)、「如来の法身は是れ常波羅蜜、楽波羅蜜、我波羅蜜、浄波羅蜜なり。佛の法身に於て是の見を作す者は是れ正見と名づく」(『勝鬘経』「顛倒真実章」)の記述がまず挙げられ、さらに『仏性論』等の経論を用いて、それぞれについて、次のように説明されています。
断常二見を遠離するを大常となすの意なり。/楽とは安穏の義にして、即ち如来法身が衆苦を永離し、涅槃寂滅の大楽に住するを云ふ。/我とは自在無礙の義にして、即ち如来法身は大我にして八自在羅を具するを云ふ。/浄とは離垢無染の義にして、即ち如来法身には諸の惑染なく、湛然清浄なること大円鏡の如くなるを云ふ。
そのことを念頭におきながらも、次のようにお話しいたしました。
私たちは毎日心配なことがあったり、うれしいことがあったりと、心が浮き沈み、安定いたしません。そこで、心が常に安定するよう心掛けるということが常の教えるところ。そして楽しいことや嫌なこともたくさんあります。嫌なこと、やっかいなこともひとつひとつ乗り越えていくこと、苦も楽と受けとめることが楽の教え。我とは自分自身のこと。でも自分自身を大切しつつ、まわりのお方も自分のことのように大切にし、我と感じられる範囲をひろげていくというのが、我の教えるところ。浄とは、常・楽・我という心掛けで日々を過ごせば、おのずから心が浄化され、体も健康に維持されますと、お話しいたしました。
本日は午後から護摩供があります。 合掌
(追記)我と感じられる範囲をひろげる、という具体例として、バスの運転手さんが挙げられます。運転手さんはバスの前方の小さな椅子に坐ってバスを運転されますが、心遣いはバスに同乗されるお客さまに、そしてその感覚は大きなバスの後方まで、バス全体に行きとどいているのです。