三千大千世界という世界観に関連して考えておきたいことが、私にはもうひとつあります。それは仏の存在・非存在(不在・常在)ということです。それは「一世界に二仏が時を同じくして出現することはない」という言明の意味をどのように受けとめるかということでもあります。

 

(以下は、まったくラフなスケッチのようなもので、日常読誦しているお経や、仏教教理に関する私のわずかな知識をもっての記述であり、ひとつ仮説です。さて、)いま私たちの生きる娑婆世界での仏、唯一の仏である釈尊(釈迦牟尼世尊)は既に般涅槃されています。それは2500年以上も前のことです。無仏のこの世。私などは、まがりなりにも僧侶として皆さま方に認知されているのですが、正法・像法・末法という概念によれば、いまは悪世・末法であり、「仏の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細・瑣末になり、僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこり、釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期とされる」(Wikipedia)と説明されます。

 

無仏といっても、当来世に弥勒さまが下生し、成道、説法なされますから大丈夫。自らも兜率天に上生して、弥勒さまとともにこの世に下ることも可能です。あるいは無仏といっても、お地蔵さま(をはじめ、多くの菩薩さま)が、いまもこの世にいらっしゃる、活躍中ですから大丈夫。または『無量寿経』など浄土経典によれば、西方極楽に阿弥陀さまがいらっしゃいますから、死んだ後はもちろんのこと、生きているこのときも不退転に暮らせますから大丈夫、とすることもできます。

 

『法華経』「如来寿量品偈」には「方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法 我常住於此」等々とあり、久遠の釈尊はこの娑婆世界(娑婆即寂光)に常住していることが明かされます。また「分身諸仏」という語も『法華経』にはしばしば用いられています。この場合の分身諸仏とは(『法華経』の真実性を証明する)「十方分身釈迦牟尼仏」(『法華懺法』敬礼段)のことをいうのでありましょう(池田魯參「訓読註解・法華三昧行法」参照)。『梵網経』には「一華百億国 一国一釈迦 各坐菩提樹 一時成仏道 如是千百億 盧舎那本身」云々とあり、「百億」とは、三千大千世界を構成する百億(ただしくは千の三乗の十億)の国土(須弥山世界)の数であり、私たちの娑婆世界では、釈尊は既に般涅槃されていますが、他の999,999,999(9億9千9百9十9万9千9百9十9)の須弥山世界では、いまもお釈迦さまは活動中なのでしょうか。百億の須弥山世界における、釈尊の出現、成道には時間差があるのでしょうか、いまだ私には未解決なのですが、「一時成仏道」とあるので、かりに時間差はないとしても、本師のビルシャナ仏が常恒である限り、千百億の釈迦も常恒なのでしょう。

 

 

次に『法華経』での「久遠の釈迦」とあるのは、どのような釈尊をいうのかといえば、おそらく『法華経』自身では「一心欲見仏」とするならば、霊鷲山に姿を現われる「常在此不滅」なる釈迦をいうのでしょう。それは、色界第四禅最上処のアカニシュタ天処に住される大日如来と同じ意味合いを持つのではないでしょうか。そして、これが『大日経』における「三界の表に在るにあらず」(『大日経疏』)に繋がると私には思われます。

 

以上、三千大千国土という世界観は、大乗仏教以前に、すでに語られていたことなのですが、大乗仏教において無仏という時代認識に対する、諸仏の不在を補い、仏の常在を可能にする概念となっているのです。三千大千世界という世界観に関連して考えておきたいことは以上です。

 

なお三千大千国土という概念を用いずとも、仏の不在を補う、それを解消する考え方があります。それは経の附属(経の普及を託す行為)であり、涅槃にさいしてのお釈迦さまのおことば「阿難よ、あなたにはこのような思いがあるかもしれない。師の教えは終わった、もはやわれらの師はいないと。 しかし阿難よ、このように見てはならない。あなたたちのために私が説き、制した法dhammaと律vnayaが、私の死後のあなたたちの師である」であるのです。

 

三千大千世界という世界観、法・律を師とすること、そして附属を自らとして受けとめることが綜合されて、法身としての大日の自覚が生まれると考えているのです。 合掌 (仮説を検証のため、以後も勉学をつづけます。)