アカニシュタ天処の仏教的意義
密教が、大乗仏教の一翼を担う独自の宗教的存在としてその姿あらわす、いいかえれば、大乗仏教としての新たなる立場を明確に主張しはじめるのは、『大日経』の登場・成立を待ってからのことです。七世紀頃の成立とされる『大日経』は後期大乗仏典に配属され、そこに示される、仏の成道の場所は色界四禅最上処であるアカニシュタ天処(色究竟天)であるとする理解は、中期大乗経典の代表的なものの一つである『楞伽経』において、すでに次のように記されています。
心と心作用[との働き]を遠離し、[一切を]分別することなく(無分別で)、常に結びついた(yuktaすなわち、常に静慮dhyānaの)状態にあり、力と神通に自在を得て、三昧に熟達している諸仏は、あらゆる過失を離れた、そのアカニシュタ天処にてさとりを開き、一方、ここでは化身がさとりを開く。
仏は欲界、そして無色[界]ではさとりを開かない。欲を離れた、色界[第四禅の最上処である]アカニシュタにてさとるのである。
これは大乗仏教の定説のひとつとして主張されているものと、私には受けとめられます。なぜなら、諸仏の成道の処がアカニシュタ天処であるという主張には十分に理由があることなのですから。考察されるべき項目として、少なくとも三つが想定されます。宇宙観におけるアカニシュタ天処の意義、禅定論におけるアカニシュタ天処の意義、仏伝におけるアカニシュタ天処の意義です。これら三つは密接に関連し、仏伝におけるアカニシュタ天処の意義は禅定論におけるアカニシュタ天処の意義に含まれます。
仏教宇宙観におけるアカニシュタ天処については、前回の配信にて、アカニシュタ天処がある場所、その大きさについては概ねご説明できたかと思います。ですから、ここでは前回のお話しを補足する意味でも、禅定論におけるアカニシュタ天処の意義を中心にお話しを進めます。本来なら「煩悩論」についても言及しなければならないのですが、いまはできませんでした。
まずは三界について。欲界は「三昧に入っていない、散り乱れる心」すなわち「散心にある有情の生存領域」、「散地」(さんぢ。「生得の心散乱の地」)であるのに対して、色界は四禅(初禅・離生喜楽地、第二禅・定生喜楽地、第三禅・離喜妙楽地、第四禅・捨念清浄地)、無色界は四無色定(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)と呼ばれる禅定(dhyāna静慮)・三昧(samādhi, samāpatti等至)を修する有情がそこに生じることのできる生存領域(瞑想の実践によって到達することのできる場所・状況)であるので、ともに「定地」(眼耳鼻舌身の五根をとおして知られる物質的な情報を遮断して、統一された心・意根で認識する状態)と呼ばれます。欲界では有情(生き物)としての本能的欲望(食欲、性欲)が盛んで強く働き、憂・喜・苦・楽・捨という五つの感受がすべてあり、心が千々に乱れるのも致し方ないわけであります。
「禅定の観察対象としての物質的要素がまだ僅かに」残る色界に対して、無色界は「色法(変壊・質礙という性質をもつ、物質一般)はひとつもなく、ただ受想行識の四蘊のみ、純粋に精神的生存である」とされますので、それは「ただ欲界・色界の中にあって」、それぞれの三昧を修した結果として獲得される精神的な生存領域であると理解できます。
無色界、その非想非非想処は、その定がきわめて細相で、大変高度な瞑想状態であるいい、三界(有漏世間、すなわち迷いの生存領域、有bhava)においては、もっとも頂にある天という意味で「有頂天」(有頂地)と呼ばれるのですが、無色界はその名の通り、「かたちあるもの」(rūpa)でなく、「方処」を超越している(、すなわち一切の物質的な繋縛を受けない)ので、宇宙観としては、アカニシュタ天処が「有頂天」とされること場合もあるのです。アカニシュタという語の意味は、英語ではNothing Higher, Unsuprassedと表現されるように、「さらにこの上なき」(色究竟)という意味だとされるのです。
では、なぜ「さらにこの上なき」なのでしょうか。次に釈尊が般涅槃に至る禅定・三昧の過程を見てみましょう。それを伝える資料は『大般涅槃経』ですが、中村元訳『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経―』岩波文庫1980では、わずかpp.159-160の二頁分の記述です。それを佐々木閑『100分de名著 ブッダ最期のことば』2015は次のように語っています。「(ブッダは)瞑想状態に入り、瞑想の度合いを高めたり低めたり、何度か行き来したのち(、すなわち初禅から非想非非想定まで、滅想受定(= 滅尽定)を経て、非想非非想定から初禅まで、再び初禅、第二禅、第三禅、そして)第四禅というレベルに入り、そのあと息を引き取りました。涅槃にお入りになったのです」と。「第四禅から起こって、尊師はただちに完きニルヴァーナに入られた」ということを伝えているのですが、実にこれだけの記述なのです。これは一体何を意味しているのでしょうか。それについて、無色界の無所有処定と非想非非想定とは、釈尊がその修行時代に体得した三昧であり、ともに「この教えは厭い離れる境地に導かず、貪りを離れることに導かず、欲望の滅することに導かず、寂静の境地に導かず、さとりに導かず、正覚に導かず、安穏の安らぎに導かない」と判断したものでもあることを踏まえて考える必要があり、無色界の無色定のあり方にその理由があるようです。
「止観」ということばがあります。禅定・三昧を構成する、止(śamatha寂静。心の散動を静めて一つの対象に集中させること)と観(vipaśyanā審慮。対象を如実に観察すること)をいいます。無色界の最上処である非想非非想処とは、心が生じても認識しないまま消える、認識しようとする心の働きである想(saṃjñā構想作用)さえもないような(非想)、なくもないような(非非想)、心の状態(処āyatana)になった、最高のレベルの禅定・三昧をいい、空無辺処、識無辺処、無所有処定はその前段階であり、それに準ずるのです。そしてその心の働きさえも(一時的に)尽きたのが滅想受定(= 滅尽定)であるといいます。すなわち、色界第四禅を過ぎれば、止と観のバランスが保てなくなると指摘されるのではないでしょうか。色界第四禅の最上処であるアカニシュタ天処を含む第四禅が無想定を支える地であるとされるように、涅槃に至るに適しているとともに、成道に至る最も適した状態でもあるという両局性を有していると受けとめられるのです。すなわち止と観の調和がもっとも最高に達した状態、観察対象に対して心が完全に平安(捨)な状態に達した色界第四禅であり、アカニシュタ天処が「さらにこの上なき」と呼ばれるのは、真実を観察する、ものごとの真実を見きわめるうえで「さらにこの上なき」という意味なのです。これが、諸仏の成道の処がアカニシュタ天処であるとされる根拠であると筆者は考えるのです。(また第四禅には、いわゆる火・水・風の三災が及ばないとされていることをも付記しておきましょう。しかし「第四静慮地の器世間が常住であるわけではない。(中略)有情とともに生じ滅する」のであるということは決して忘れてはいけません。)
この文章を作成するにあたっては、
藤本 晃『悟りの階梯』テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造、サンガ2008
櫻部 建『倶舎論』仏典講座18、大蔵出版1981
池田連太郎「色界第四禅について」『印度學佛教学研究』40/2,1992
などを参照いたしまた。感謝申し上げます。