『大日経』における成道の場・菩提道場 (胎蔵マンダラ・第24回)

 

 お釈迦さまは、かつてマガダ国、ブッダガヤーの菩提樹下において、さとりを開かれました。したがって菩提道場(bodhimaṇḍa)といえば、その菩提樹下を意味するのが一般的で、素直な読みなのですが、『大日経』はその菩提樹下以外にも、世尊ビルシャナの住処である「広大金剛(*udāra-mahā-vajra)法界宮」(実質的にはアカニシュタ天処、およびプラス・アルファ)、さらには阿闍梨(ācārya)によって現前に画かれるマンダラ(maṇḍala)に対しても、菩提道場という語を用いているようなのです。まずアカニシュタ天処であることを端的に示す(それとも、暗示している)菩提道場の用例は次の一文です。

 

「秘密マンダラ品」第十一より

【漢訳】毘盧遮那世尊應正等覺、坐菩提座、観十二句法界、降伏四魔。此法界生三處流出破壞天魔軍衆。

【読み下し文】毘盧遮那世尊應正等覺、菩提の座に坐したまいしとき、十二句の法界(「真言王」)を觀じて、四魔を降伏したまう。此の法界生は三處より流出して天魔の軍衆を破壞す。

【チベット訳】(下線部のみを翻訳文中に示す)

【チベット訳からの翻訳】世尊ビルシャナ如来応供正遍智は菩提道場に坐り、これら十二句をもって法界を観察しつつ四魔を制圧し、そして(rnam par dpyad cing bdud bzhi pham par byas nas)法界より生じたこれら(十二句)が三処から生じ、悪意あるマーラ達(māra-pāpīyas, chin天魔軍衆)を調伏する者となった。(byung ste bdud sdig can rnams brtul bar gyur to //)

 

 十二句とは、aṃ khaṃ(空輪)aṃ aḥ saṃ saḥ(地輪)haṃ haḥ(風輪)raṃ raḥ(火輪)vaṃ vaḥ(水輪)をいいます。

 

この記述での菩提道場(chin. 菩提座)は何れの場所をいうのでしょうか。それは、「四魔」「天魔」という語に注目することで答えが導きだされます。「四魔」という語の用例は、胎蔵マンダラ(20)において考察した「具縁品」における成道の場面を示す一節にもありました。四魔とは、蘊魔(五取蘊のこと)、煩悩魔(三界中一切煩悩のこと)、死魔(死に至らしめるもの、死そのこと)、天魔(成道をはばみ、障礙する他化自在天のこと)をいいます。まず四魔を制圧する(四魔を降伏する、煩悩魔等を破するkleśamārādi-bhañjana)という表現について、それは世尊(bhagavat)の語義解釈として用いられ、成道([bodhy]abhisaṃbodhi)を達成することを意味しています。(たとえば、『理趣釈』巻上「婆伽梵者能(607a20)破義也。所破者破四魔也(婆伽梵(bhagavān, m. sg. nom.世尊)とは能破の義なり。所破、四魔を破するなり。(又六義有り。)」)

 

 次いで経文によれば、四魔は「十二句(の真言)をもって法界を観察」することで制圧され、その十二句が三処より生じることで「天魔の軍衆を破壞」することとなった、とあります。「十二句(の真言)をもって法界を観察すること」で、さとりを開いたと理解できる記述に対して、通常の仏教理解では奇異に受けとめられるのではと危惧しますので、ひとこと申しあげます。『大日経』はまさにそのように考えているのです。たとえば「具縁品」第二には次のようにあります。

 

【漢訳】            

仏子此大乗 真言行道法 我今正開演 為彼大乗器

過去等正覺 及与未来世 現在諸世尊 住饒益衆生 

如是諸賢者 解真言妙法 勤勇獲種智 坐無相菩提 

真言勢無比 能摧彼大力 極忿怒魔軍 釋師子救世

是故汝仏子 応以如是慧 方便作成就 当獲薩婆若

【読み下し文】仏子、此の大乗 真言行道の法を 我れ今正しく開演せん 彼の大乗の器の為めなり 過去の等正覺 及与び未来世と 現在の諸もろの世尊は 饒益衆生に住したもう 是くの如くの諸もろの賢者は 真言の妙法を解し (大)勤勇にして種智(=一切智)を獲 無相の菩提に坐せり 真言の勢いは無比なり 能く彼の大力の 極忿怒の魔軍を摧く 釋師子救世なり 是の故に汝仏子 応に是くの如きの慧と 方便を以て成就を作すべし 当に薩婆若を獲べし 

【チベット訳からの翻訳】貴方は大道において器なるによって、御子よ、[吾は]ここの大乗の真言行道(mantracaryānaya)の儀軌を貴方に開示する。

過去の諸仏(saṃbuddhās)、同じく未来、生類を益するために[この世に]住される現在の導師等である彼らすべては、勝れて良きこの真言儀軌(mantravidhi)をお知りになって、(それぞれ)勤勇者(vīra)として菩提樹下(bodhi[vṛkṣa]-mūla)において、無相の一切智(sarvajña/ sarvajñatā)を獲得した。真言行(mantraprayoga)は無等である、救世釈獅子はきわめて耐え難いマーラの軍隊(mārasainya)、そしてその大軍(mahābala)をそれによって破したのである。それ故に、一切智を獲るために、御子は、この[ような]認識をなすがよい。

 

 成道に導く真言として、さらにA Vīra Hūṃ Khaṃがあります。それは、「mahāvira(大勤勇)の心真言hṛdaya」と呼ばれます。「悉地出現品」第六の一節です。

 

【漢訳】爾時毘盧遮那世尊、又復住降伏四魔金剛戲三昧、説降伏四魔解脱六趣

満足一切智智金剛字句 南麽三曼多勃駄三南 阿味羅吽欠

【チベット訳からの翻訳】ときに世尊ビルシャナは、四魔からの勝利・金剛遊

戯(vajravikṛīḍita)という三昧に等至され、四魔に勝利し、六趣より解脱さ

せ、一切智智(sarvajñajñāna)を円満させる金剛字句をお説きになられた。

Namaḥ samantabuddhānā A Vīra Hūṃ Khaṃ /

 

 では上記した「秘密マンダラ品」第十一の一節における「菩提道場」とは、何れの場所をいうのでしょうか。この一節に対する『大日経疏』巻第十四には、四魔はすでに阿迦尼吒天において降伏され、此の土に於いて、かさねて天魔を降伏と示すという理解しています。

 

大日如來、a道場に坐したまう時、平等に法界を觀じて、此の十二句の眞言王を説きたまう。即ち此の力を以て能く四魔を降し、其の罪垢を除きたまう。然も四種の魔の中に三魔は無色なり。是れは佛、b阿迦に於(いま)します時、已に(= 四魔すべて)を降伏したまう。唯し天魔のみ有相なり。世界の中に自在力を知らしめんと欲うが爲の故に、、c此の土に於いて天魔を伏するを現じたまう。([4]476、小田216)

 

 この記述におけるa「道場」(菩提道場)は、b色界第四禅最上処であるアカニシュタ天処、あるいはc「此の土」(下地、欲界、菩提樹下)のいずれであるのかといえば、まずはアカニシュタ天処をいうのであろうし、そして菩提樹下をも含意すると考えるのが良いようです。(もちろん、見方、あるいは普遍と個別のいずれに重きをおくかとの違いによって、その逆の表現も可となります。胎蔵マンダラ(20)における「具縁品」の一節の「菩提道場」は、個別であり、特殊としての用例なのです。)なおここでの「有相」の意図するところは、天魔を降伏するということは教化対象となる私たちにも認識できるということであり、ですから、悟りのあり方(外迹)を私たちに知らせるために「復(かさねて、再び)」ということなのです。

 

 以上で、『大日経』における「菩提道場」という語は、アカニシュタ天処と菩提樹下・金剛座とのふたつを指示対象としていることをご説明いたしました。次いで、アカニシュタ天処が世尊ビルシャナ如来の住処であることを説明いたします。(仏教における、アカニシュタ天処の意義については、後日改めてのご紹介となります。)

 

 世尊ビルシャナ如来の住処を『大日経』は「広大金剛法界宮」と表現します。これについても詳しい解説が必要なのですが、ここでは『大日経疏』巻第一における、とても有名な一文のみをご紹介しておきます。(私たちは大学二年生のときの講義で習いました。)

 

 この宮は、是れ古仏成菩提の処(ところ)、謂わゆる摩醯首羅(maheśvara)天宮なり。釈論に云わく、第四禅の五種は那含(anāgamin不還果の聖者)の住処なり、浄居天と名づく。是れを過ぎて以往に十住(ここでは、十地のこと)の菩薩の住処あり、また浄居と名づく。号して大自在天王という、是れなり。今この宗の明かす義は、自在加持神心の所宅なるを以ての故に、名づけて自在天王宮という。謂わく、如来有応の処に随って、この宮に非ざること無し、独り三界の表(ほか)に在るにあらず。([1]19-20、小田8)

 

 如来の神変加持する時(いいかえれば、如来と加持感応する時)、法界悉く金剛法界宮である、私たちは教えられています。世尊ビルシャナ如来の住処は、色界第四禅の最上処であるアカニシュタ天処、すなわち「古仏成菩提の処」であるとともに、「三界(欲界・色界・無色界)の表(ほか)に在るにあらず」とあり、それは私たちの足下、現前に開示される真実のあり方としてのこの世界であるというのです。それを具体的にいえば、マンダラなのです。それが『大日経』における「菩提道場」という語のさらなる指示対象であり、マンダラを画くという宗教的行為は、まさしく釈尊の成道時おける、天女・地神による証明と魔軍の退散という仏伝を踏まえての儀礼行為としてあるのです。それは次の記述において明らかです。

 

「具縁品」第二「地神警発」の偈

【漢訳】            汝天親護者 於諸仏導師 修行殊勝行 浄地波羅蜜 

                        如破魔軍衆 釈師子救世 我亦降伏魔 我画漫荼羅

【梵文】

tvaṃ devī sākṣibhūtāsi sarvabuddhāna tāyinām /

caryā-naya-viśeṣeṣu bhūmi-pāramitāsu ca //

mārasainyam yathā bhagnaṃ śākyasiṃhena tāyinā /

tathā mārajayaṃ kṛtvā maṇḍalaṃ lelikhyāmy aham //

【梵文からの翻訳】救済者たる一切諸仏の勝れた行道と、地と波羅蜜多[の実践]に対して、天女よ、貴女は証知せる者である。まさしく救世者・釈師子がマーラの軍隊を破した、そのように吾は魔に打ち勝ち、[貴女の上に]マンダラを画く。

 

 なお、この偈において「一切諸仏の」と複数形であるのは、菩提道場とは、もちろん成道の場であること、すなわち、かつて悟りをひらいた場所、そして、悟りをひらくことになるであろう場所を含めて、悟りをひらく場所をいうということなのです。以上において、『大日経』における「菩提道場」という語の意味するところを要約して、ご説明いたしました。

 

この配信のおまけとして、その菩提道場では、何が起こったのかを簡単にご紹介しておきます。

 

ここでは、『大日経』「三三昧耶品」第二十五における「三身自在転」という表現に注目します。

【漢訳】            

     此三三昧耶 諸仏導師説 若住此三等 修行菩薩時 

     諸導門上首 爲利諸衆生 当得成菩提 三身自在転 

秘密主、三ミャク三仏陀安立教故、以一身加持

【チベット語からの和訳】

まさに、種々な理趣を通して有情を利益することを願う勇者[たち]は、これら三三昧耶に住して菩薩行を行い 

秘密主よ、悟りを開き、三身に自在となれるその時、これら正覚者saṃyaksaṃbuddaたちは、すなわちまず、ただ一つの変化身を加持して、教説を安立なされるのである。

【チベット語】

de’i tshe sna tshogs tshul gyi sgos // dpa’ bo sems can phan ‘dod pas //

dam tshig gsum po ‘di dag la //gnas nas byang chub spyad pa spyod //  

gsang ba pa’i bdag po gang gi tshe sku gsum la mnga’ mdzad pa de dag rdzogs par sangs rgyas par gyur pa de’i tshe yang dag par rdzogs pa’i sangs rgyas de dag ‘di ltar dang por sprul pa’i sku gcig pur byin gyid brlabs nas bstan pa gzhag pa mdzad do //

 

「三身に自在となれるその時」に対して、『大日経』に対する註釈者Buddhaguhyaは「アカニシュタ処においてさとりを開いた(= 成道された)、まさにその時に」(酒井訳p.449)と註釈します。では、何が起こったのでしょうか。以下は何の論拠も挙げることなく、筆者自身のことばをお伝えしますことお許しください。

 

 三身に自在となれるとは、さとりを開くということと同義であり、それは、三身をそなえた者となるということをいいます。まず法身をそなえるとは、法爾の仏・覚体である法身としてのビルシャナ、すなわち清浄法界となること。現代的にいえば、宇宙大の生命体としての自覚を獲ることであり、そのあり方は、『大日経』中に示される、さまざまな三昧を通して語られます。

 受用身をそなえるとは、法身としての自覚を有する者となり、その成道の場である色界第四禅最上処であるアカニシュタ天処に常恒に(これよりは永久に)身をおき、法を説きつづけること。

 変化身をそなえるとは、人界にあって成道・宗教的人格完成者としてのあり方を示し、生きとし生けるもの有情すべてを救済し、この世界を浄土に変革することに努めること、といえましょう。

 

 マンダラとは、宇宙的規模の大きさ、広がりのある仏という存在、そして仏としての身語意の活動、三身をもっての仏としての活動を、私たちが追体験、再現できるように画かれたものなのです。その意味でこそ、マンダラは菩提道場なのです。

 

 以上が、胎蔵マンダラに関する一連の配信内容の結論のひとつです。(やっとここまで無事にたどりつくことができて、安心しています。)もちろんのこと、この結論は、弘法大師が日本に両部マンダラを請来するにあたって示された彼の有名な一節の内容を、一歩もでるものではないことは十分に承知しています。

 

 密蔵深玄にして翰墨に載せがたし。さらに図画を仮りて悟らざるに開示す。種種の威儀、種種の印契、大悲より出でて一覩に成仏す。(中略)密蔵の要、実にこれに繋れり。『御請来目録』(大同元年806年)

 

 

なお追記としてもうひとこと。『大日経』における「菩提道場」という語の用法は、『法華経』におけるその用例、たとえば「如来神力品」における「如来滅後に、法華経が供養されるところは、すべて如来たちにとっての菩提道場である」とする理解(三友量順「法華経に見られる四処の変化」参照)、『維摩経』における「直心即道場」等の見解をうけて、「菩提道場」という語がもつ、元来の意味を新たに再解釈したものであると、仏教学的には評価されるのではないでしょうか。  合掌