ご家族さまの了解のもと、兄弟子と一緒にお師僧さまにお会いしてきました。お元気でした。お顔色も良く、お声もしっかりとして、以前のままです。安心いたしました。先生もよろこんでくださいました。

 

さて、行き帰りの新幹線の中では、「密教観法の思想的背景」(『日本仏教学会年報』第45巻、1977)という先生の論文を読み返していました。

 

本論文は、一 自心の源底、二 法身説法と観法、三 本尊の有相(ここは、種字・三昧耶形・尊形、有相と無相、超越と内在、とに分節される)、四 三密瑜伽、五 加持の構造、六 結語から成り、密教観法(真言密教の瞑想法)を教学の面から考察し、その特徴を指摘、論じたものです。以下、その論述を順々に追いながら、その内容を要約してご紹介したく存じます。

 

まずは「自心の源底を覚知し、実の如く自身の数量を証悟す。いわゆる胎蔵海会のマンダラ、金剛界会のマンダラ、金剛頂十八会のマンダラ、これなり」『十住心論』と、空海・弘法大師のおことばにあることを知っておいていただきますように。

 

真言密教の眼目(がんもく)は如実知自心(『大日経』住心品)にある。如実知自心とは、(有相の心と無相の心に分析される)自心の源底にまで到達する自覚であり、一切智者(すなわち、ビルシャナ如来)となり得る深さをいいます。自心は「秘蔵」にして「究竟最極法身の自境」(『弁顕密二教論』、法身仏最極位の境界)と呼ばれ、「これ、三身の土(法身・報身・応身が活動する仏国土)なり、五智の荘厳本より豊か」(『性霊集』巻第一)とあるように、自心の源底は誠に豊かな徳に満ちているのです。

 

自心の源底を覚知する(「心自ら心を証し、心自ら心を覚る(。この中には智解の法もなく、知解の者もなし、はじめて開暁すべきに非ず、云々)」『大日経疏』巻第一)、ということは通常の生活のもとでは容易なことではない。それは自心、すなわち全身心を挙げての、法身自体の三密説法(法身説法、自受法楽の説法。法身自体が語り、自らに聞かせるという状態において)でなければならない。法身説法の規模は五大・六塵・三密・遍法界・常恒・具十界であり、山川草木・森羅万象を挙げての説法である。真言密教が有する、マンダラや尊像、そして印契や真言等は、ただ法身を伝える象徴や媒体ではなく、法身がまさに自身を語らんとする、法身そのものである。したがって、それを前にして静かに坐し、至心に観念を凝らす時、法身自体が語り出すのです。

 

密教観法の基本構造は、行者と本尊の入我我入(生仏不二の境界)にある。本尊は、種字(種子の字、そして真言)、三昧耶形・尊形を通して体得される。これら「字・印・形像」(『大日経』)について、先生は次のように語っています。

 

種字は覚りの抽象的表現の極限(凝縮された文字)であり、これが断片的な(がら、一定の意味をなす)ことばとして流出したのが真言であり、具象し(、シンボルとなっ)たのが三昧耶形(印契)であり、更に人格として現成したのが形像具足の尊像である。※( )内は、筆者の補いです。

 

字・印・形像は、有相、まずは発声され、すなわち聴覚で認識され、色形として視覚で認識され、仏としての姿を現じて、帰依処となるのであるが、同時に無相として認識されるべきものである。真言密教の本尊は、形(ākāra 形相)を現じてはいるが形を超えており、形に限定それたものではない、本性清浄なるものである。

 

真言密教は、全身心をもって自心の本源を内に思索し瞑想すると同時に、外には図絵彫刻の本尊に帰命、すなわち自らを空しくして、仏との加持感応の中で本来の自己自身に成る道を歩むものである。したがって、おのずからそこには自心と本尊との二者それぞれの内在と超越、すなわち遍一切処の二つのありようが知られることになるのです。

 

密教観法は「手に印契を作し、口に真言を誦し、心、三昧に住す」(『即身成仏義』)る三密の行法であり、「法仏の三密は甚深微細にして、等覚十地も見聞すること能わず」(『同』)とされるのですが、三密行の前提には、法身仏と衆生(行者)との三密が本来一体であるとする考え方があるのです。すなわち「我即大日」の本覚に深信をおかなければならないということです。

 

三密瑜伽は加持によってはじめて成就する。加持という語について「加持とは如来の大悲と衆生の信心とを表す」云々とあるように、三密瑜伽は自己、すなわち行者の努力だけで覚りが達成できるものではなく、また仏からの救済力のみで成就されるものではなく、加持の状態において、それは我執の行者なく、偶像視された本尊が消えた時、行者本具の仏性が開顕されるのです。

 

これらの真言密教の瞑想法の特徴を論じた後、六 結語においては、密教瑜伽の観法は、インド、仏教内外の瑜伽実践の思想方法論を基盤とし、華厳円教や空観の思想を背景としていることを指摘しています。  合掌  以上の通りです。