胎蔵マンダラ(22)胎蔵九尊(胎蔵五仏・四菩薩)の教義学的解釈
大日如来と釈尊との関係性を扱った前回(19, 20, 21)は、私にとっての40年以上前の卒業論文「金剛頂経の仏身観について」で論じた課題のひとつであり、可能な限り明確にしておきたいと思ったことの結果なのでした。今回の胎蔵マンダラ(22)も、『平安仏教学会報』第4号(平成18年)に掲載された「『大日経疏』における胎蔵五佛と五転」を踏まえての論述となります。文字数は8500字を超え、かなり読みづらいのですが、できるだけ分かり易くお伝えいたします。文中のところどころに示した図表のようなものだけを、さらさらとスクロールして御覧いただき、最後の<結論>をお読みいただいて結構です。よろしくお願いいたします。
さて、現図胎蔵マンダラの中台八葉蓮華の四方・四隅の華弁には、四仏・四菩薩の仏さまが配されています。胎蔵四仏・四菩薩がワン・セット(一組み)として言及されるのは、『大日経』「入秘密マンダラ位品」第十三においてです。それは次の通りです。
東方に宝幢如来、南方に開敷華王如来、北方に鼓音如来、西方に無量寿如来なり。東南方に普賢菩薩、東北方に観自在菩薩、西南方に妙吉祥童子、西北方に慈氏菩薩あり。Cf.『大日経疏』巻第十六「毘盧遮那(Vairocana)[は]華台の上に在り、次の八葉を以て、東方に宝星仏を観ず。亦、宝幢(Ratnaketu)仏と名づく。南方は開敷華王(Saṃkusimitarājendra)佛なり。因陀羅(indra)も亦是れ王の義。若し重ねて王を言わば便ならざるが故に、梵音を存す。北方は鼓音(Dundubhisvara)佛<前には阿閦(Akṣobhya不動仏)を置く、今改めて此の名となすなり>。西方は阿弥陀(Amitābha, Amitāyus無量寿)なり。その四隅の葉、東南は普賢(Samantabhadra)、東北は観自在(Avalokiteśvara)、西南は文殊(Mañjuśrī)、西北は弥勒(Maitreya)なり。」
お話しをはじめるにあたって、いくつか確認しておきたい事項があります。まず胎蔵四仏(もちろん、大日をも含めて)は、「具縁品」第二においてすでに言及されているということです。それは次の通りです。
行者、次に中に於いて 意を定めて大日を観ぜよ 白蓮華の座に処し 髮髻を以て冠と爲し 種種の色光を放って 通身に悉く周遍せり 復当に正受に於いてすべし(?) 次に四方の仏を想え 東方をば宝幢と号く 身色日暉の如し 南方の大勤勇は 遍く覚華開敷し 金色にして光明を放ち 三昧、諸垢を離れたり 北方の不動仏は 離悩清涼の定なり 西方の仁勝者 是れを無量寿と名づく
しかも注意すべきは、「具縁品」第二でも、先の「入秘密マンダラ位品」第十三でも、なぜか胎蔵四仏は、東方・宝幢、南方・開敷華、北方・不動仏(= 阿閦仏。「入秘密マンダラ位品」第十三では、鼓音如来)、西方・無量寿という順序での列挙となっています。東南西北の順序ではないということです。(これが、後述するような、方便究竟を無量寿に配釈する解釈を生じる一因となったのかも知れません。)
次の確認事項として、四菩薩それぞれは「入秘密マンダラ位品」第十三に先立つ「普通真言蔵品」第四、「密印品」第九にて個別に言及されていることはもちろんですが、『大日経』序分の眷属成就にて、いわゆる十九種の執金剛に次いで、諸菩薩が挙げられていて、その代表者が四体の名が、中台八葉蓮華の四隅の華弁に配される四菩薩とは多少異なるということです。それは次の通りです。
及び普賢菩薩、慈氏菩薩、妙吉祥菩薩、除一切蓋障菩薩等の諸の大菩薩によって、前後に囲繞せられ、而も法を演説したもう。
ここでは、なぜか観自在菩薩の言及がなく、除一切蓋障菩薩の名が挙がっています。除一切蓋障菩薩(、および一切悪趣を含めて)が『大日経』にとって、大切な仏さまであったということです。(Cf. 『大日経疏』巻第十六「四菩薩とは、普賢は巽(= 東南)、文殊は坤(= 西南)、慈氏は乾(= 西北)、観音は艮(= 東北)、是れその位なり。前の縁起列衆の中には、或は除蓋障を以て観音に替へ、或は除一切悪趣を以て文殊に替う。その義、各おの異なり。課(つい)に一事を用ふるに亦得るなり。此の中(すなわち中台八葉蓮華)には観音を以て正とす。」)これら四菩薩について『大日経疏』巻第一は、内眷属、すなわち如来の金剛智印である諸の執金剛に対して、「(菩薩は義に)定慧を兼ね、また慈悲を兼ぬ」、「大悲方便普門を以て(あるいは、大悲方便は普門に)無量の衆生を摂受し、法王を補佐して、如来の事を行ずる」大眷属と呼び、「ビルシャナ内証の功徳」(「仏身の四徳」)を表わす菩薩であると、その役割を示しています。このうち普賢菩薩と弥勒菩薩については、次のように説明されています。
普賢菩薩とは、普は是れ遍一切処(すべてに遍くし。この理解が普賢菩薩を如来蔵と結びつける要因にもなる。)の義、賢は是れ最妙善の義なり。謂はく、菩提心より起す所の願行、及び身口意、悉く皆平等にして一切処に遍じ、純一妙善にして、備さに衆徳を具す。故に以て名とす。
慈氏菩薩(= 弥勒菩薩)とは、佛の四無量心(=慈悲喜捨)と謂う。今、慈を以て首とす。この慈(karunā)は、如来の種姓の中より生じて、能く一切世間をして仏家(仏種)を断ぜざらしむ。故に慈氏と曰う。上に普賢と云うは、是れ自證の徳なり。本願已に満じて、衆生を化してこの道を得せしめんと欲す。故に次に之を明すなり。
普賢菩薩、弥勒菩薩の仏さまとしての特性がよく理解できる記述です。なお、普賢菩薩、観自在菩薩、文殊菩薩、弥勒菩薩は、金剛手、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、除一切蓋障菩薩とともに、八大菩薩を構成していることについては、既に「釈迦寺インスタグラム」上の胎蔵マンダラ(15)にて指摘し、そのうち、観自在菩薩、金剛手、文殊菩薩、除一切蓋障菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩については、それぞれ同(8[8月11日投稿])、(9)、(11)、(12)、(14)、(15[9月4日投稿])において、ご紹介いたしました。
さて、胎蔵マンダラにおける四仏・四菩薩について、ここでは胎蔵現図マンダラに基づいてお話しを進めます。そして胎蔵マンダラにおける四仏・四菩薩はどのような役割をもっているのかでしょうか、いいかえれば、四仏・四菩薩は現図胎蔵マンダラにおいて、どのように理論化されているのかというということを中心にしてお話しいたします。
この課題を『大日経疏』の理解に基づいてご説明いたします。まず論述の前提となる理解を示しておきます。それは、胎蔵マンダラの中台八葉蓮華の四方・四隅の華弁に配される四仏・四菩薩は、華台の大日尊が完備する「四智」と「四行」といわれる功徳を、私たちが理解、体得できように(「若し如来、ただ自証の法のみに住したまへば、すなわち人を度すること能わず、云々」『同』巻第二十)、仏の姿として色形を現じられた仏さまである、ということです。四菩薩については、先の記述において、少し触れておきました。そして、ここでの「四智」とは通常の五法(四智と清浄法界)のうちの四智を意味するのかどうかという問題もあります。(「四智」は「四行」と同じ名称で呼ばれている、菩提心、菩提行、成菩提、涅槃に相当するという解釈を後に提示します。)
まず四行とは、菩提(「無上の大果」)を成ずるために必要となす四つの項目をいいます。すなわち、1)浄菩提心、すなわち菩提を求めようとする心、あわせて、菩提のような浄らかな心を発し、2)大智慧、すなわち「第一義空の妙慧を以て、彼の遍一切処の浄菩提心を浄め」、「平等慧の利刃を以て、無始無明の根を断ちて、すなわち菩薩の正位に入」る般若の智を体得し、3)六度(六波羅蜜多行)をそなえて衆生を摂す、すなわち悲をもって方便を励み、4)行願成満して、華台三昧(大日尊)に証入することをいいます。それぞれの役割は1)普賢、2)文殊、3)弥勒、4)観音に託され、それが大日尊のそなえる四行であるというのです(『大日経疏』巻第二十)。また四菩薩は、四摂法と解される場合もあります(『同』巻第十二)。四摂法は布施、愛語、利行、同事をいい、人々を教化するための実践で、四摂事とも呼ばれます。それは「観音・文殊・普賢・弥勒、已に八葉の中に在り。即ち大日如来の大法身なり。人を度せんが爲の故に、漸く外に出でたまう。」(『同』巻第二十)とある通りです。なお観音と弥勒とについて、『同』巻第十三では「北方観自在及び、弥勒賢劫の一生補処の菩薩を以て眷属とす。娑字を置け」とあり、また「この印(= 手印)、窣都波の形の如くなるは、(頼富本宏「釈尊を象徴する」)一切如来の法身塔を持するを以ての故なり。猶ほ観音の仏身を持するが如し。」とあり、この二つの仏さまが親近性をもって説明されているということは、とても興味深く感じるのです。(これが現図胎蔵マンダラにおいて、観音と弥勒との配置の入れ替えを許す理由のひとつとなったのではと筆者は予想しています。)
胎蔵四仏は、大日尊の「四智」の功徳をあらわすとありますが、その「四智」とは通常の五法(四智と清浄法界)の四智と解していいのか未だ不明であり、それは『大日経疏』では、胎蔵四仏とその四智との関連性を直接明示する記述はないようであるからなのです。ここでは発心(a因)・修行(ā行)・菩提(aṃ証)・涅槃(aḥ入)・方便(āḥ方便究竟)といわれる、阿字の四転・五転が胎蔵四仏(もしくは胎蔵五仏)に配当される記述に注目しましょう。なお阿字の五転のうち、前四転は、『大日経』「字輪品」第十(後述の【記述4】)に、真言としては「悉地出現品」第六において直接説かれているのですが、それが『大日経』「住心品」第一に説かれる三句の法門と関連付けられることによって第五「方便」が加えられたのであり、その結果として、いくつかの異なったパターンを生じることになったようです。そしてそこには、結論のひとつでありますが、阿字の四転のように涅槃を最後に置くか、それとも三句の法門(「住心品」第一「菩提心爲因、悲爲根本、方便爲究竟」)が主張するように方便を究竟(最終目的)とするか、という考え方の相違があるのです。阿字の四転・五転と胎蔵四仏(もしくは胎蔵五仏)の配釈を『大日経疏』二十巻の巻数順に示してみます。
中央 「阿字門を以て転じて大日如来の身を作せ。」
東方 宝幢如来 発菩提心 一切智の願、(大悲万行)
南方 華開敷仏 「(大悲万行に長養せられて、)いま遍覚の万徳開敷を成ず。」
北方 不動仏(鼓音如来) 涅槃の智
西方 無量寿如来 方便智 「衆生無尽なるを以ての故に、諸仏の大悲方便もまた終尽なし、故に無量寿と名づく。」
【記述1】では、「阿字門を以て転じて大日如来の身を作せ」とあるのみで、未だ、阿字門より転ずる阿字の配当は指示されていません。胎蔵五仏に対する色彩の配当というものが『同』巻第六(【記述7】)にあり、それによれば、より具体的に五仏の功徳を理解することができます。
【記述7】巻第六 胎蔵五仏の色彩(Cf.『大日経疏』巻第五)
潔白 「ビルシャナ浄法界の色なり、すなわち一切衆生の本源なるが故に。」
赤 宝幢如来「既に菩提心を発して、明道の中に於いて、魔怨を降伏し、蓋障を滅除するが故に。」
黄 (開敷華如来)「正覚を成す時、万徳開敷して。皆金剛実際に到るを以ての故に。」
青 無量寿「加持方便を以て、普く大悲マンダラを現すこと、浄虚空の中に具さに万像を含むが如し。」
黒 鼓音如来 「これ如来自証の地、大涅槃に住するなり。」
なお【記述7】では、胎蔵五仏が中・東・南・西・北と通常通りの順番で列挙されています。「具縁品」第二の記述にしたがう【記述1】の胎蔵五仏列挙の順番の特異性は、「涅槃」の位置づけに対する理解をもって、その意図を推し量ることができるのです。このことは、胎蔵五仏を日・月(月、白月、黒月、その中間)に関連づける次の記述【記述9】を参照すれば、「涅槃」を「衆行皆尽」とする理解がより明確にできます。
【記述9】『大日経疏』巻第四 胎蔵五仏と日・月
日 本浄の菩提心、ビルシャナ
月 菩提行
白月十五日(満月) 成菩提 黒月十五日(新月) 般涅槃
その中間 「その中間に時とともに昇降するをば方便の力の喩う。」
なお、【記述9】では、ビルシャナ以外の胎蔵四仏の名は挙げられていませんが、【記述7】にしたがって理解するのが妥当でしょう。
【記述2】『大日経義釈』巻第七(『大日経疏』巻第十)阿字の四転
菩提心の真言(a) 「阿字門、これ心の実相なり。」「本智の常日なり、故にビルシャナ法門と爲すなり」
菩提行の真言(ā) 「阿<引>字(中略)いわゆる万行なり。」宝幢如来
成[三]菩提の真言(aṃ) 「一切処に遍じて万徳開敷す。」華開敷仏
涅槃の真言(aḥ) 涅槃、鼓音声如来
【記述2】では、阿字の四転が見られます。そして胎蔵図像における五仏に対する書き込みには、菩提心は「上方ビルシャナ如来」、菩提行は「東方宝幢」、成菩提は「南方娑羅樹開花王如来」、【記述2】には言及されないところの、「西方無量寿如来」には方便智との書き込みを加え、そして涅槃は「北方鼓音声如来」とあって、胎蔵五仏と阿字の五義の組み合わせが示されています。(ただし、āḥという種字が明かされるのは【記述4】になってからです。)
【記述3】『大日経疏』巻第十二 四方はすなわちこれ如来の四智なり
1)阿字門 菩提心 2)暗字 無上菩提を成ず
3)阿<長>字 菩提の行 4)悪字 大涅槃
【記述3】に「四方はすなわちこれ如来の四智なり」との重要な記述があるのですが、なぜか四仏の名も、四智の名も明記されません。次のように補説されるも事態は解消されません。「先ず阿字門(a)に従って菩提心を発す<すなわちこれ真言の来処なり>。次に彼の果(aṃ)を知る。次には、これこの字輪の五の阿字の義に由って、大果報を成ぜんと欲うが故に、如来の行(ā)を修す。修行するを以ての故に、大涅槃(aḥ)を証することを得。大涅槃を証するが故に、能く心性を見て、すなわちこの心は法界の体なり、本よりこのかた常寂滅相なりと知るが故に、末後の悪(口+悪aḥ)字門なり」と。「大果報」とは「大涅槃」のみを意味するのでしょうか。それに答える記述が『大日経疏』巻第二十(後述の【記述5】)にあります。「(次に鼓音仏とは方便なり。)既に大果を得、是れ(もしくは、豈に)自ら受用するのみならんや。即ち普く、一切衆生の爲めに之を演ぶ、種々の方便・成所作智なり。」と。ここにおいて、五法のうちの四智のひとつ「成所作智」という語が用いられています。したがって、明言はされませんが、『大日経疏』には、胎蔵五仏に五法(四智と清浄法界)を配するという理解もあったことが想定できます。(これが、阿字の第五転であるāḥ字が加えられることになった理由であると、筆者は考えています。ただし「如来の四智」が五法の四智それを直接意味しているのか、未だ疑問です。)
【記述4】『大日経疏』巻第十四 「字輪品」第十の釈
阿 菩提の心、菩提心の体 、ビルシャナ法身の体
「阿字より更に四字を生ず。すなわちこれ、大悲胎蔵の葉なり。」
阿<長> 如来の行
暗 成菩提
悪 大涅槃
悪<長> 方便
『大日経』「字輪品」第十は、a, ā, aḥ, aṃの四転を説くのですが、āḥは言及されていません。『大日経疏』が【記述4】において、(はじめて)āḥを加えたのであり、それについて次のように説明しています。「悪(口+悪)<長声>字の一字は是れ方便の輪なり、所以に(= だから)この中には無きなり、これはこれ釈迦仏の輪なり<羯磨部は遍く一切の輪に入るが故に別壇なし、瑜伽に爾かいう>」と述べています。したがって、ここに胎蔵五仏と阿字の五転の組み合わせのひとつの完成形が浮かび上がることになります。ただしこれは【記述1,2】の理解とは異なっています。すなわち、
阿 菩提心 ビルシャナ (仏部)
阿<長> 如来の行 (宝幢如来) (金剛部)
暗 成菩提 (開敷華) (宝部)
悪 大涅槃 (無量寿) (蓮華部)
悪<長> 方便 釈迦仏(鼓音声如来) 羯磨部
また『大日経疏』巻第十四にある、次の記述はとても重要です。「阿字の如きはこれ菩提心なり、点を加ふればすなわちこれ菩提行なり、大空を加ふればすなわちこれ成仏なり、もし菩提心清浄にして、一切の蓋障を除くは、すなわちこれ大般涅槃なり、さらに他の義なし。是の如く等を一一に通達し了知するときは、すなわちこれ無上殊勝の句を受得するなり。無上の句とは、すなわちこれ成菩提なり。この無上菩提の心は、すなわちこれ諸仏の自然の智なり。実には能くこれを授与する者あることなし。ただし行者方便具足して、善く字輪の義を知るとき、自然に之を得、すなわちこれ無上菩提を授与するなり」と。これは菩薩行・如来業のすべては阿字の働きであるとし、その目的とするところは「方便具足」であるとしているのです。(未だ論証できませんが、「如来の四智」とは、「方便を具足した」四行、すなわち如来業を意味している可能性を指摘したいと考えます。それは菩薩行である「四行」と名称を同じくします。ですから胎蔵四仏、五仏に阿字の四転・五転が何等問題なく配釈されるのであると筆者は考えています。)
さらに同巻には、阿字の五転に対しては色の配当もなされています。ただし、それは【記述7】の理解とは一致していません。
阿字 黄色、金剛の色
阿字ā 黄白色、寂静の色「三昧を白とす、二色合するが故に黄白なり。」
暗字 黄白色「阿字は黄なり、大空は白し、故に黄白色なり。」
悪字 黄黒色「二点は涅槃なり」「降伏の義なり」「色は黒し、故に黄黒なり。」
悪字 (黄・白・黒)種々の雑色
つづく【記述5】【記述6】【記述8】は、いずれも『大日経疏』巻第二十における、いわゆる「大日経抄記」(『大日経義釈』)と呼ばれる部分にあるものです。
【記述5】は次のように表示できます。
宝幢仏 菩提心
華開敷仏 行(= 十度万行)
阿弥陀 「大果実を成じて、その果を受用すること無量なり」(この記述を筆者は、成菩提、証涅槃を含むと理解します。)
鼓音仏 方便
【記述5】は【記述1】と、菩提心・行(万行)・成菩提・証涅槃・方便の五つを胎蔵四仏に配当することにおいては軌を一にするのですが、その配釈は異なるものとなっています。
【記述6】は次のように表示できます。
阿字 東 菩提心 宝幢仏
阿<平>字 行(万行) 開敷華
暗字 西 三菩提 阿弥陀
悪字 大涅槃(正等覚の果) 鼓音
悪<長声>字 中 方便 ビルシャナ
悪<長声>字についての記述は、次のようなものです。「入中の悪<長声>字は是れ方便なり、これはこれビルシャナ仏本地の身、華台の体なり、八葉を超えて方所を絶す」。【記述6】は、胎蔵五仏と阿字の五転の組み合わせについて、もうひとつの完成形が示すものです。ただしこれは【記述4】とも、【記述1,2】の理解とも異なります。
【記述8】では、再度、色彩の配釈が行われます。そしてさらには地・水・火・風・空という一切智智(の働き)を象徴する五大もあわせて示されています。それは次のように表示できます。
宝幢仏 菩提(a) 黄色 金剛の性(= 妙慧、地)
開敷華 万行(ā) 赤 火
無量寿 成菩提(aṃ) 白色 水(大悲)
鼓音声 大涅槃(aḥ) 黒 風(「如来方便の火、息む」)
ビルシャナ (方便āḥ) 一切色 空(「畢竟清浄にして、有せざる所なし」)
【記述8】では、阿字の五転も胎蔵五仏の名も示されていませんが、【記述6】と組み合わせて、理解することが妥当であると考え、それは加えて、上記において図示しておきました。
<結論>
以上で、『大日経疏』における、五仏と阿字の五転に関連する記述の概略を説明いたしました。かなり複雑なようですが、「方便究竟」(「万行所成の一切智智の果」『同』巻第一)をいずれの仏に配釈するかということに注目すれば、とてもすっきりと分類でき、解釈することができるのです。
方便究竟の配釈のパターン
ビルシャナに配釈するもの【記述6】【記述8】
阿弥陀に配釈するもの【記述2】(ただし阿字の五転は明示されず)【記述1】【記述7】【記述9】
天鼓音声に配釈するもの【記述4】【記述5】
阿字の四転と「四智」のみを説くもの【記述3】
このような解釈、特に方便究竟の配釈の相違は、『大日経疏』の巻数を追うごとにおける胎蔵五仏解釈の変遷として処理することも可能なのでしょうが、私としては、たとえば、『大日経疏』巻第二十「若し未だ果を成ぜざる時に就きて之を観ずれば、これすなわち差次浅深あり、いま如来平等の慧を以て観ずれば、因より果に至るまで、ただ是れ如来の一身一智の行のみ、是の故に八葉皆是れ大日如来の一体なり」、さらには「中胎の五仏四菩薩、豈に異身ならんや、即ち一毘盧遮那のみ。如来の内証の徳を分別して、外に表示せんと欲するが故に、一法界の中に於いて、八葉分別の説を作すのみ。」という記述に再び注意すれば、方便の句をビルシャナに配釈するとしても、胎蔵四仏のいずれもが方便究竟としての働きを有している、すなわち胎蔵四仏のいずれにも方便究竟の働きが含意されていると解釈することが可能であると、筆者は考えるのです。いいかえれば、それは阿字の四転と三句の法門とを組み合わせることによって生じた、「方便究竟」の解釈に基づくものと想定するのです。そして、鼓音声如来に「方便」を配釈するという考えは、華台のビルシャナである浄菩提心が加持された顕われとして、菩提行、成三菩提、般涅槃、方便究竟を理解するものであると筆者は考えるのです。このように、いろんなパターンでもって、五仏と阿字の五転に関連を示すことで、胎蔵五仏に対する私たちの理解がより深まるようにとの阿闍梨のご配慮なのであったと受けとめられるのです。そして『同』巻第五「その中胎蔵はすなわちこれ毘盧遮那の自心の八葉の華なり」とあるように、チベット所伝の胎蔵マンダラの中台八葉蓮華には、ビルシャナ一尊のみが画かれることも充分理にかなっていることなのです。さらにいえば、『大日経疏』巻第一に「衆生の自心の実相はすなわちこれ菩提なり」、同巻第六に「心の実相はすなわちこれ毘盧遮那遍一切処なり」、同巻第十二に「衆生の自心の処は、すなわちこれ一切の仏の大悲胎蔵マンダラなりと指す」とあることは、中台八葉蓮華(、そして大悲胎蔵生マンダラ全体)は、私たちそれぞれの心の真実のあり方、心の浄化されたあり方に他ならないということをもあわせて指摘しておきます。
そして四菩薩の「四行」とは、「法王を補佐して、如来の事を行ずる」とあったように、法王(*dharmarāja諸仏の王)、すなわち華台のビルシャナの働きを担い、如来の事、すなわち胎蔵四仏として示される「如来の四智」を行ずる仏さまとして理解できるのです。したがって、中台八葉蓮華に配される四菩薩は、通常の菩薩さま以上にして、「ビルシャナ内証の功徳」(「仏身の四徳」)を表わす大眷属であるのです。
関連する資料として、
小峰弥彦先生「中因発心と東因発心」『現代密教』第2号
福聚講 「第二十 発趣階位章」2022/02/22 等
があります。とても勉強になりました。 合掌