言葉は、、意思疎通のツールの一つ。
でも人間は、言葉一つですれ違い、傷つき、思い悩む。

はるか昔、まだ色々な言葉がなかったころ、人は同じ一つの言葉をつかってた。

人が神様に向けて、、
悪意を持って神様にむけツバを吐き、高い塔を建てて、自分達の強さ、繁栄を神様に見せつけようとした。

だから神様は、一つの言葉を乱して、多くの言葉にし、、特定の一部の人同士だけと会話が出来るようにされた。

最小単位でいえば家族、。
知人、近所の人、、同郷人、同胞人、、。

でも、現代は、、
インターネットが普及して、自動翻訳もされて、、かなり、同胞人以外とも、、会話が出来る環境ができてて恵まれている。

インターネットで、、
物理的に
そばに居なくても、色々な人と自由に話せる時代になった、。

でも、目の前に居ないから、、
そばに住んでない、、リアルで関わらないから、、とか
顔が見えないからか、、

悪意を持って、、
人に言いたいことを言って、
人を平気で傷つける、、
心無い人も増えた気がする。


人への悪意がない場合は、過失。
罪は軽い。
でも、憎んで恨んで、悪意を持って人にそれをぶつけたら、、

自分が、人にぶつけた悪意は、、
ドミノ倒しのように、、グルッと
色んな人を仲介して、最後に、自分に何倍にもなって戻ってくる、、。

人への悪意を心の根底に置いて、何かを行動するのは、、自分に反るだけ。
自分は注意してあげた、。
正してあげただけ、、そういう高ぶりの心があるうちは、、正しいとはされない。

相手を愛しての行動ではなく
自分は正しいと自己中心の思考から出てないのだもの。

自分は正しいと
どこの誰が言い張れるのだろう、、。

人間は、勘違いもあるし、思い違い、思考や受け取り方の違いで、意見が真逆になったりする。
正しいのは、、神様だけ、。

だから、自分は正しいとふんぞり返っている人のことは、神様は、正しいとはお認めにはならないでしょう。


ルカ福音書18章10節〜
10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。

12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

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自分を正しいと思う人は、
他者へ思いやる気持ちを持って言葉を使わない。
言いたいことをストレートに言う。

それは言葉の剣であって、
言われた人の心を傷つけ、心から血を流させる。

父さまが、、
心から血を流して苦しむ人を、、
憐れまない事がありましょうや?

そういう人こそ、神様とイエス様は、憐れまれるでしょう。

だって、人から責められて、そんな自分を許せず、自分でも自分を責めてるのだもの。。。

もう、、苦しまなくて良いと、、
重荷を下ろしなさいと仰るに違いないです。

私の苦しみを、拭い去って下さったイエス様だから、、あなたの苦しみも、同じように拭い去りたいと思われてるはず。

救いを信じなさい。
すでに神様に、イエス様に赦され愛されて居ることを、、信じなさい。
感謝しなさい。

自分が自分を許せないまま、、
すでに救われていると信じないなら、神様でも救えない。

救いも赦しも、
自分自身が求め与えられたと
信じないことには現実化しない。

憎たらしいと、恨み憎んで
心で殺人を犯した大悪党の私が、、
自分の罪に絶望して、、悔いて
地獄に落ちて当然だけど、、

神様と、、離れたくない、、と
絶望の中で、ひたすら切望し、
イエスに救っていただいた。

地獄に落ちて当然と思っている人間には救いが必要、。

自分が正しいと思っている人間は、地獄に行って当然とは思わないし、

神様もイエス様の救いも必要ないから、神様とイエス様を切望することもない。

マグダラのマリア