こんばんは。

今日はどの方にとってもためになる話だと自負しております。

良かったら、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。

 

『「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。

かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」

という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。

「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。

かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」

という思いをいだかない人には、ついに怨みは息(や)む。

実にこの世において、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、

ついに怨みは息(や)むことがない。

怨みをすててこそ息(や)む。

これは永遠の真理である。』

(ブッダの真理のことば)

 

私には誰かからされたり言われたことを引きずって、

許せなかったことが何度もあります。

皆さんにはそういうことないですか?

 

私の場合、時には、二十年以上前の記憶が甦り、

出来ることならそいつの所に行って

殴ってやりたいと思い詰めたこともありました。

それも一度や二度ではなく、何十回、何百回と思い出されるのです。

 

とにかく、突然ふとした時に、当時のことがまざまざと思い出されて、

殺したいほどの感情に襲われるのです。

考えても仕方のないことだとは分かっているのです。

でも、自分の意思ではどうしようもなく、

妄想がぐるぐると独り歩きして悶々としてくる。

そういう時は本当に苦しいです。

 

ほんの半年ほど前まで、私にはそういうことがありました。

そういう時、私はその感情のままに流す努力をしていました。

すると、いつの間にかそれらの感情は薄れ、消えていきました。

でも、ふとした時に、再びそういう感情に襲われる。

そんなことを、今まで無数に繰り返していたのです。

 

それが、お陰様で今ではほとんど無くなっています。

まだ、自分自身の先行きや現状への不安感に襲われることはあるのですが、

他者への遺恨はほぼゼロになりました。自分でも不思議なのですけど。。

今では何を思い出しても、どうってことはありません。

 

なぜ、ここまで改善されたのでしょうか?

 

それは、私の場合、「気付きの瞑想」や「慈悲の瞑想」、「内観」

といったものを実践したことが要因ではないかと思います。

 

「気付きの瞑想」では、妄想を食い止めます。

 

「慈悲の瞑想」では、好き嫌いや生命の区別なく、この世の全ての生命の幸せを祈ります。

 

「内観」では、私の場合ですが、

過去、自分が他人にしてあげたことではなく、

他人からして貰ったことだけを思い出すのです。

 

これらのことを実践することで、ある日、嫌だった記憶がどうでも良い記憶に

すり替わっていることに気付いたのです。

これは私の身に、本当に起きたことなのです。

 

例えば、私がガイドにしているのが、次のような動画です。

これは瞑想の基本で、私にとっては非常に役に立ちました。

スリランカのスマナサーラというよく喋るおじいちゃんです(笑)

 

 

また、次のような動画もあります。

地橋秀雄さんという方ですが、非常に分かりやすく瞑想の効用について語っておられます。

誠実で優しそうなおじいちゃんです。

ここでは内観については触れられていませんが、

地橋秀雄さんの他の動画で知り、実践してみたら効果があったのです。

自分が誰かにしてあげたことではなく、して貰ったことだけを思い出す。

内観はそれだけです。

 

以下は、慈悲の瞑想の動画です。

また、慈悲の瞑想とは違いますが、斎藤一人さんも面白い動画をアップしておられますね。

それもあわせてご紹介しておきます。

寝る前や朝起きてからこれらのことを口に出して言うと良いですよ。

私の場合は誰もいない所でぶつぶつ呟いています(笑)

 

 

 

以上のように、本当の仏教は非常に私たちの心にやさしいのです。

いかがわしいものでも、いわゆる宗教というのでもありません。

普通に理解すれば、争いとはむしろ対極にあるものです。

大乗仏教ではその優しさの余りに他者救済や布施を強調し過ぎてしまい、

それが逆に強引な勧誘やカルトの集金システムにも利用されてしまっていますが、

本来、仏教とカルト・お金とは無縁のものです。

本来の仏教は、

人間の苦しみを取り除き、幸せにしたいというお釈迦様の願いであり、そのための教えなのです。