介護福祉士を養成する専門学校を卒業して

新卒で入職した福祉施設は特別養護老人ホームでした。


高齢者が最期まで住んでいられるのが特徴で

看取りも経験しました。


その時にいつも周りと比べて自分はどうして⁇と思うことがありました。



[老人ホームを利用されている方を第三者に話す時に「利用者」と呼んでいたのでそのまま使います。]


利用者さんが施設で最期を迎えると

連携病院の医師が来て死亡確認をします。

(その間ご家族にも連絡して来ていただきますが)

看護師が身体を拭いて着替えをして最期のお世話をします。

(介護士も手伝いますが、希望されるご家族も一緒にお世話する場合があります)


葬儀屋さんがお迎えに来て、利用者さんをご自宅に帰る(か、斎場に行かれる)のですが、その際出勤している職員は玄関に出てお見送りしていました。


ご家族と挨拶して

スタッフも涙を流しているわけですが


その場に涙も出ずに居る自分を客観的に感じてる存在を感じながらその場に居合わせていることが多く、そういう時私がいつも感じていたのは、亡くなっても涙が出ないから「自分は優しくない人なんじゃないか?」ということでした。


しかし退職後

シュタイナーの講座を受けていて

人の死にたち合っても泣けない自分を認められるようになりました。


私たち人間が肉体だけの存在なら

命が止まると全て終わりのように感じますが

本来エネルギー的(意識体)な存在で、肉体を脱いでも宇宙空間に存在している…ということを知れた時


祖母のお通夜での体験を思い出しました

お通夜の夜、祖母の遺体の置かれた部屋で寝ていたら、夢の中で祖母が上から私の顔をのぞいて頬を両手ではさんで何か訴えて行きました。

言葉はなかったけど、生前の祖母の人柄から受け取るに「頼むぞ…」みたいな感じでした。


あの時、「死んだ人はいなくならない」と思いました。


地球が物質で出来ていて

存在を物質的に表している場所だから

見えるけれど

そこ(地球)を出たら見えないけど存在する状態になる…と。


逝ったり来たり


ボディライトニンでは

亡くなった日を命日と呼ぶのは

新しい命の日だから…

と教わりました。


それで、

泣けない自分を肯定することができました。


お葬式で

泣ける人が優しい訳でもなく

泣けないから優しくない訳でもなく


そういう判断ではないところを感じ取ることができる講座があったことに感謝しています。


でも、その人として姿を現しているのは

その時の人生だけだから

会えなくなる寂しさや悲しさを感じ尽くすことも大切なことだとも思います。


生きているうちに

その人と泣いたり笑ったり

怒ったり喧嘩したり

そういうことで心を揺らし続けられる世界🌍も楽しんで生きようと思える今日この頃



死んで終わりなら

「命日」という言葉は生まれない…

のではないかな。


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