放す
つるちゃんです。こんばんは。
先週は無事まじくる同窓会が行われました。いろんな人と再会できてうれしかったです。そのあとのスクラム同窓会にも行きました。
推進事業では研究しているので、毎度毎度「なぜ」「なぜ」となぜの大連発です。
なぜ話すことが大事なのか、なぜ聞くことが大事なのか。今日はあることを考えていました。
(これはあくまで私の意見です。)
私は話していることがそのまま自分を表しているかと言われれば、あまりそうではないことがよくあります。みなさんはどうですか?
私は物事を伝達したり、準備していたことを話する場合はなるべく正確に伝えようとしますが、(「よう」とはしてるんですよ・(笑))自分の事を話すときは、大事なことは話した後に「あー私の言いたいことは違ったかも」と後ろ髪惹かれる思いで回想します。
伝えられた物事で私を判断する人には本当の自分は伝わっていない。
壁があったり、はなすひとによって感情は違うし‥、隠したいこともあるし。
話がへた、テキトーなことを話すっていう致命的なことがあるのですが、なんでだろうと考えたら、私には「話して」始まる物事があると気づきました。
考えるのが「始点」で話すのと、口にして、それが「始点」でそれから考えがわいたり、感じたりすることがある場合があると思ったのです。
考える「始点」は一人でできますが、話す「始点」これは話す相手、聞き手がいます。
話す「始点」では相手が聞いてくれていることでなっています。
たとえば、私が「これが好きこれは嫌い」と言ったら、受け取る方は「つるちゃんはこれが好きでこれが嫌いなんだな」と普通に受け取りますよね。
私はそのときまで、「これが好き、これは嫌い」とかたく信じて思って過ごしていたわけです。
でもそれを口にした途端、微妙なあんばいでの、あるいは転換したようなずれが生じることがあります。
あれ、「これ」ってなんだろう。これは嫌いなのか。問題が違う?そもそもなんでそこんなにに重要なことだっけ?と思ったりします。
その間に対話はどんどん進んでいっていて結局つるちゃんは「これが好きでこれが嫌いな人」として伝わっておしまいになっていて今の自分が伝わっていない。
そして話が終わっても私はずっと考える。そして「『これが好き、これが嫌い』と、こう思っていたのはこういう理由があったんだな、でも実際は違ってそうだ。」とかいろいろ考えます。家に帰っても考える。そうするとどんどん発展することもあって自分を知ったり変わっていたりします。
そういうことがよくあるのです。それが言いたいこととは違ったなあとなるのです。
相手に伝わったことが、たとえのようにどうでもいいことならいいですが、大事な関係性やものごとなら、もう一度話をしたり、振り返ったり、本当のことを伝えたいと思うことがあります。
だったら、「自分で考えてからしゃべったらいいな」と思い、最近はそうしてますが、やっぱり口にしてわかることがあります。
伝えるってなんだか難しい。
…私は困っていた時、重大な問題は、話してから考えたりするとさっき言ったように自分や物事がわかったりして、自分が何をしたいかとか考えたり、どうしたらよいか考えられるようになりました。だから話すのが大事だし聞いてくれる人がいないと困ると思うのです。
私は話すは、「放す」ような感覚。
かごの鳥を放すと、鳥は自分で飛んでゆく。
話すこと、そこから始まることがあるのです。
まりもようかんの「かわ」をつまようじではじいて中身が食べられるように、中身が出てくる。
↑これはないか(笑)
それには「放していいよ、大丈夫だよ。」ていってくれた聞き手がいてこそ「放せる。」
あるいは、聞き手が問いかけで「放して」くれて「放せる。」
今日、何を言いたかったというと、とりあえず、テキトーに話すことをやめようと思いました。(笑)
そして実は肝は、話すだけではなく相手の本当の放したことを聞く、伝えていることを受け取る人間にならないとなりませんねぇと自分に言い聞かせたいのです。。
人の話を自分で遮っていないか、人の思いを断定して軽んじていないか。自分の体験や感情で人の人生を否定したりしていないか、人の本当の話したことを受け入れようとしているのか。放していいって言っているのか。相手の気持ちを考えているのか。一方的になってないか。
では夜は考えて寝ます。
まとまりのない文章ですみませんでした。。。。みなさんよい週末を。