★★龍馬伝★★(1~3回)
私のHPもヨロシク~!
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★大河ドラマ★『龍馬伝』★<1~3回>
坂本龍馬
<キャスト紹介>
坂本龍馬:福山雅治
(父)坂本八平:児玉清ー(義母)坂本伊與:松原智恵子
(姉)坂本乙女:寺島しのぶ
(兄)坂本権平:杉本哲太 ー(妻)坂本千野:島崎和歌子
(龍馬に関わった女性達・・・)
平井加尾:広末涼子 楢崎龍:真木よう子
千葉佐那:貫地谷しほり
岩崎弥太郎:香川照之
(父)岩崎弥次郎:蟹江敬三ー(母)岩崎美和:倍賞美津子
勝 海舟:武田鉄矢 西郷隆盛:高橋克実
千葉定吉:里見浩太朗 千葉重太郎:渡辺いっけい
武市半平太:大森南朋ー(妻)武市冨:奥貫薫
近藤長次郎:大泉洋 岡田以蔵:佐藤健
平井収二郎:宮迫博之 沢村惣之丞:要 潤
溝渕広乃丞:ピエール瀧 後藤象二郎:青木宗高
桂小五郎:谷原章介 吉田松陰:生瀬勝久
中岡慎太郎:上川隆也
<1~3回>
坂本龍馬(福山雅治)
1835年11月15日・武士階級・下士(郷士)(ごうし)の
息子として誕生する。
坂本龍馬:福山雅治
<始めに・・・>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時の土佐藩主・山内一豊は、信長・秀吉・家康と主
君を渡り、「関ヶ原の合戦」で東軍、徳川に付き功名を上げ、
土佐24万2千石の藩主として配属されるも、
「関ヶ原~」では西軍、豊臣方に付き、土佐を仕切っていた、
在地の豪族長宗我部盛親が反乱をお越し、それを抑える
手段として、武士に階級を付けたのである・・・
上士・下士(郷士・白札・地下浪人)
(じょうし・かし)(ごうし・しろふだ・じげろうにん)
長宗我部一族は下士とされたのである。
上士は下駄を履き、下士はぞうりしか履けない、
上士と道で会えば下士は土下座をし頭を下げるべし!
下士の出世は皆無だった・・・
夢を求めて、坂本竜馬と、岩崎弥太郎はそれぞれ別の
道で立ち上がるのであった!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<1回>上士と下士(じょうしとかし)
TVは高地城下、泣き虫で、弱虫の9歳の龍馬(濱田龍臣君)
が少年達と遊んでいる所から始まる・・・
或る日、「郷士」より低い身分の「地下浪人」の息子、岩崎弥
太郎と知り合う。
上士が通ると土下座をさせられる下士(父と龍馬)
或る日、龍馬が貧困な弥太郎に、おにぎりを食べさせようと
して渡そうとした時、咄嗟に落とし、それを犬が加えて逃げ
るのを2人で追った!!
龍馬が弥太郎におにぎりを渡そうとした時・・・
ところが、歩いていた上士に龍馬がブチ当り、上士を怒らせ
てしまった龍馬は打ち首になる寸前、それを聞いた母が病
に付していたが、雨の中、命を張って助けてくれた・・・が、
その母は間もなく病死した。
悲しみの龍馬だった・・・
この時龍馬は子供心に、上士と下士の差をまざまざ感じ
させられたのである・・・
そんな龍馬もすくすく大きく育ち、剣術や学問に優れ、幼なじ
みの加尾は龍馬に恋心を抱くようになる・・・
<2回>大器晩成?
龍馬は目覚めて、自分の生きる道を求めて、江戸に行く事を
決意する。
剣術の腕も、学問も一番優れていた武市半平太(白札)も、
龍馬と同じ江戸行きを抱くも・・・年老いた母を置いて行かれ
ず、「自分の親を面倒見れない奴は侍ではない・・・」
と言って、悩みながら断念する・・・
<3回>偽手形の旅
江戸へ剣術修行に行く事を藩主より許可を得た竜馬は、
過去に経験のある溝渕広之丞と共に土佐を後にする。
これを知った岩崎弥太郎が一緒に連れて行ってくれと、
追って来た。
一つ目の関所は運良く通過できたものの、実は弥太郎、
偽の手形を自分で模倣して作ったものの、二度目の関所
では通じなかった・・・もしかして、打ち首になるかも・・・
と、心配しつつ、2人は関所を後にして、船に乗った。
出航まもなく、遠くの岸壁から手を振ってる奴が居た!!
「龍馬~~~ワシはお前が大嫌いじゃ~~~!!
船もろとも死んじまえ~~~~!!」
龍馬も叫び返す・・・
「弥太郎~~~!!お前の思いも一緒に江戸に
もって行くぞー! 元気でナァ~~~!!」
「ワシはお前が・・・大き・・・じゃ~~~」・・・
<4回へ続く>
★岩崎弥太郎★
(岩崎彌太郎)
土佐藩の地下浪人の息子として生まれ、貧しい暮らしの中、
学問に励み、江戸行きの志も断念した後に、藩の吉田東洋
に見出されて出世する。
後に長崎で土佐商会の主任になり、龍馬の海援隊の
活動を金銭面で支えていった。
龍馬の死後、大阪西区堀江で土佐藩蔵屋敷で
1870(明治3)年に3隻の汽船で「九十九(つくも)商会」とし
て海運事業を開業、彌太郎がその経営・監督の任に当たり
その後、「三川商会」と名を変え初代社長となり、その後
「三菱商会」として、立ち上げ、「三菱蒸汽船会社」、
「郵便汽船三菱会社」と社名を変えながら、活発な活動を
展開していきました。
政府の仕事を受注して、巨利を得るなどして三菱財閥の
創始者となった男である。
また、東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)、
1885(明治18)年には、「郵便汽船三菱会社」は反三菱派
が後押しする政府保護の共同運輸会社と激しい競争に
さらされました。
2年半におよぶ不毛の戦いの末に2社は合併することにな
り、三菱の海運部門は新会社の「日本郵船会社」に営業譲
渡し、多くの社員が移籍しました。
この競争のさなか、彌太郎はその波瀾万丈ともいえる生涯
を、まだ50歳の若さで終えます。
<その後> 彌→弥(や・・・の字が略になっている)
二代:弥之助(次男)・三代:久弥・四代:小弥太氏が受け
継ぎ三菱グループを栄えさせたのせある。