悪魔辞典を創ろうと言うことでこれから日記にかくことがなかったりしたら悪魔・天使・妖怪・神話・伝説などのことを書きます
最初はルシファーですしってますよね?!
【ルシファー】
宵の明星。明けの明星、大天使ミカエルの兄弟。自ら
神になろうとして、神に背き、エデンを追放され、
堕天使となった後に、地獄の王として君臨し、悪魔を
統括する。サタンとも呼ばれる。木星(サターン)は、
質量、成分などが太陽に近く、「太陽になり損ねた星」
として有名である。木星がサタンの名を冠されたのは、
太陽と酷似しながらも、太陽のように輝きを得られ
なかったということが、神に背いたサタンの話を
天文学者達に想起させたためだろう。
この文のなかのサタンのことも書きます
サタン
サタンという言葉が最も初期の段階において獲得していたイメージを踏まえず、最大公約数の見解を汲むのであれば、ルシファー
と互換性を持ち、したがってあらゆるデーモンを統べる統領であって、デヴィル
と呼ばれる存在である。しかしながら、すっかり瓦礫に埋まってしまったサタンの像を掘り起こそうと試みるならば、通俗的なこの種の見解が初期教会人によって塗り固められた混乱や誤解から生まれていることがはっきりと解る。「黙示録」第十二章九節の言明は最も端的にそれを表しており、ここにおいてドラゴン、蛇、ディアボロス
(デヴィル)、サタンは同一存在であるとされる。ほとんどの場合は「神に対立する者」たるデヴィルとして教会文書に顕れるが、もとのヘブライ語ではシャタナ・shatanaであるらしく、「反対すること」「苦しめること」を意味する。初期ヘブライ語の意から、サタンは敵としての称号を持ち、「人間の敵」よりも「神の敵」であるが、ときにこの二つは重なり合うようにも振る舞う。
大衆が受け取るサタンは、初期教会の釈義に責任と問題のある劇性に富むイメージの中に封じられており、ミルトンやウィリアム・ブレイクといった大詩人による華麗な描写によってそれはより一層の飛躍を得た。近代にいたってはエリファス・レヴィ
やブラヴァツキー
といった人物の手で新たなサタン像が模索される。レヴィはサタンと神との統合を目指し、サタンは専横な神による不正な断罪に懊悩していると結論づけたが、あたかも定義転覆を目論むかのようなこの見方は、後にサタンやデーモンをこそ「真に善の」存在と思い違いをする連中を生み出す危険な思想の端緒となった。ブラヴァツキーは、サタンを扱うにあたって「自然にあるもの全ての反対、対極を、形而上的に表しているに過ぎない」(「シークレット・ドクトリン」)としており、ネオ・プラトニズム的な存在論の連鎖における位置づけに幾分近く、カバラの格言「デヴィルは転倒した神である」のニュアンスとも重なる。現代秘教家のルドルフ・シュタイナー
は、サタンをグノーシス倫理的二元論の闇の作用たるアーリマン
に結びつけ、光と霊性のルシファーに対立する存在と見る。ここにおいて、サタンとルシファーの分離は明確である。かかるサタン観の錯綜(特に初期における錯綜)の原因を突き止めるには、前期ユダヤ教時代の文献を中心にサタンが遂げた変遷を概観する必要がある。
ある程度実証的にサタンを眺めるにあたり、最も初期の頃は善なる神と悪なるサタンが、「一者」の両面を示すダブレットであったことを念頭に置かねばならない。そもそも、ユダヤ教以前のイスラエル一神教時代において、恩恵の施しという「善」と苛烈な懲罰という「悪」は、いずれも神に帰属するものであった。イスラエルの民が征服民族としての終焉を迎えた時、神における悪の原理は次第にその必然性を失っていく。しかしながら、ヘブライ人は熱烈な一神教を支持し、まったき善の神に悪の理を背負わせることができなくなった時、この痛ましい形のディレンマは神の概念の大分割を生んだ。未来における悪のデーモンないしデヴィルの発生を事実上告げるこの発想は、「神の子ら」ベネ・ハ=エロヒム
および「神の使者」マラーク=ヤーウェ(マラーク
参照)という二つの断層線に沿って推し進められた。
紀元前三世紀から始まった後期ユダヤ教運動の時、黙示文学と呼ばれる偽典ユダヤ文書が多大な影響力を持った。時代にしてユダヤ人がシリアやローマの圧政に苦しんでいた時期にあたり、外からの支配を受ける悲惨な状態に呼応して、悪の問題に関する必死の模索は強大な力を持つ霊的存在の設定に繋がった。悪の霊を追求するにつれ、黙示文学の著者は「創世記」の罪深いベネ・ハ=エロヒムたちにそういった力がほのめかされていることを知り、そして「エノク書」
の中で生彩放つ叙述へと発展させたのであった。本来ベネ・ハ=エロヒムが神の一部の如く喩えられていることを知っていた「エノク書」の著者は、ここで初めて「天の子ら、天使たち」と述べることで、神性より遊離した(=神の責任の範囲から取り除かれた)存在に格下げし、かような存在は悪そのものであると何らはばかることなく断言したのであった。これら見蕩れる天使たち、あるいは一部でグリゴリ
と呼ばれる霊の主導者として、「エノク書」はシェムハザ
という名を与えた。以降の起源を違える他の様々な悪の原基の名前、ベリアル
、アザゼル
、サマエル
、シェムハザ、マステマ
、サタンなどが黙示文学時代に生まれ、独自の発展を遂げたのである。この主導者の名として最も密接に結びつけられ名がサタンであった。
神における悪の側面を与えられたもう一つの概念は、マラーク=ヤーウェであった。ベネ・ハ=エロヒム同様、マラークもまた神の換喩であるが、前者は天に留まり、後者は神の命令で世界をさすらう。マラークと神の分離はある程度段階的プロセスを踏んで完成を見るとはいえ、最も初期の頃は神そのものであり、おそらくはマラークという概念すらもなかった。「出エジプト記」における徹底的な悪(懲罰という名のもとに行なわれたエジプトの破滅、エジプトの初子殺し)は間違いなく神の手によるものである。マラークらしき霊の存在が明らかになるのは「士師記」においてであり、イスラエルを治めるアビメレクとシケムの民の間に悪霊を遣わせることで、シケムの民はアビメレクを欺く。マラークによる殺人という直接的な行為は、上下併せた「サムエル記」で明瞭に描かれる。この時期で重要なことは、神の影として忠実に使命を果たしてきたマラークが、破壊の面で最終的に神の制止を受けており、既にマラーク自身の独立が暗示されている点である。すなわち、ヘブライ人の中には本来神とマラークを同一と見る感覚があったにも関わらず、別のレヴェルでは神とは異なった実態を想定し始めていたことを示唆する。
ますます神より離れるマラークの実体は「列王記上」で述べられる。ここにおいて、マラークは自発的に神に進言し、嘘と欺瞞を振りまくべく地上へと下る。実行にあたり神の許しを得るという記述はないが、この段階ではまだマラークの行為が神に意思に適っているからであると考えられる。一応ここまでが神の両義性におけるマラークの役割であるが、「サムエル記」と「列王記」を基底とする後代の「歴代志」にあって、その著者はかつての両義性の文脈を読み取ることができなかった。神とマラークの完全な分離を試み、善と悪の境界を明確化したのであった。「サムエル記上」の「イェホヴァまたイスラエルに向かいて怒りを発し、ダヴィデを誘いて彼らに敵対(むかわ)しめ、往(ゆき)てイスラエルとユダを数えよと言わしめたもう」という記述を焼き直した「歴代志」のそれは、「ここにサタンの起こりて、イスラエルに敵し、ダヴィデを誘いてイスラエルを数えしめんとせり」である。一読すれば両者の違いは明白であろう。人口調査は罪であると明言していた神は、イスラエルの民を罰する理由を得るためダヴィデに罪を犯させたのであるが、「サムエル記」の時代に生きていた神の両面性は、後の時代の「歴代志」の頃にはすっかり失われていたのである。神とサタン(マラーク)は完全に分かれたが、「ヨブ記」にいたるとついに両者の対立までほのめかす。サタンは既に道具としてのアイデンティティを超越し、確たる意思を持って悪を働くが、神の許可という「制限」の範囲においてであり、まだ悪の原理そのものであるとは考えにくい。この微妙な時期のサタンこそ、「真 女神転生Ⅱ」のザイン(=サタン)に与えられた役回りに該当すると考えて差し支えないであろう。
今やマラーク=サタンとなった悪霊がその本性を顕すのは、ユダヤ人が雌伏の状態にあったまさに黙示文学時代である。決定的な転換点は「ヨベル記」によって迎えられ、かつて神に帰せられた全ての悪、人間を誘惑し、非難し、破滅へと導き、罰する存在としてマステマという名が定められた。悪は遍くマステマに発し、旧約聖書で神が起こした悪、つまり「創世記」でアブラハムに生け贄を求めたのも、「出エジプト記」でエジプトの初子殺しに携わったのもマステマに他ならない。伝説を遡行、改竄するこの動きをもって、マラークの悪への転化は終了したのであった。
新約以降もサタンは幾つかの異称を手にする。「マタイ伝」「マルコ伝」「ルカ伝」ではベルゼブル(ベールゼブブ
)、初期ユダヤ文書に何度か見られた言葉で、「コリント人への第二の手紙」で明確に同一視されたベリアル、「黙示録」で言及される窖の魔王アバドン
(もしくはアポリオン)などがこれらにあたり、かつてサタンが所有していた意味や変容や象徴は、かくして混沌の黒箱に放り込まれたうえで無作為に攪拌され、現代にいたるのである。
です今日これで終わります
書くことがないんです(ToT)