山崎雅弘さん

堀川惠子さん

坂上多計二さん

私はこう考える

山崎雅弘さん

戦史研究家

大日本帝国時代と似た社会風潮の下で、国の指導部はまた軍備増強の道に国民を導く。われわれはあの敗戦から何を学んだのか。

 戦後日本の平和教育では、戦争の悲惨さを伝えることに重きが置かれていました。戦争で亡くなった人を悼み、戦争被害の経験を伝えることは大切なことです。しかし、「なぜ大日本帝国はあんな戦争を始めたのか」という戦争開始の前段階の問いは軽視されてきました。
 第2次世界大戦に関するドイツの博物館は、ナチスによるホロコーストの悲惨さを伝えるだけではありません。なぜ、ドイツ国民はヒトラーを支持したのか。ナチスの自民族優越思想に多くの国民が共感し、軍備増強の高揚感に酔いしれ、それが悲惨な戦争につながったと説明されています。
 日本には、そのような本質的な反省をする施設がほとんどありません。靖国神社に併設されている遊就館は、先の戦争を礼賛する施設です。国内にある他の博物館でも、当時の精神文化を批判的に捉えて反省する視点はほとんどみられません。
 唯一、沖縄だけは例外で、例えば、「ひめゆり平和祈念資料館」では、当時の日本人が戦争に邁進した原因として、天皇中心の国家体制を日本という国の優越性に結びつけた皇民化教育や、戦争に反対する市民を「非国民」と呼んで弾圧した精神文化を挙げています。当時の日本人も、政府と軍部の言うことを盲信して、戦争の高揚感に酔っていたのです。
 第二次安倍政権から岸田政権に至る11年間の自民党政権は、外国の脅威を名目に軍備増強を進めていますが、戦前の大日本帝国も同じでした。けれども実際には、無定見な軍備増強で逆に戦争のハードルを下げ、自国の軍事力を過信した政府は外交を軽視して、武力解決という安易な選択肢を選びました。
 そして、戦争が行き詰まって収拾の目途や勝てる望みが失われても、政府と軍の上層部は頑なに失敗を認めず、場当たり的な弥縫策で兵士と国民の犠牲を増やし続けました。彼らは、国や国民ではなく、自分たちの面子を守るために戦争継続という道を選び、最後には破滅の瀬戸際まで暴走し続けました。
 戦争の反省とは、戦争に至る道を理解して、それを避けることです。日本はいまだ、その意味での反省が不十分で、また危うい道を歩きつつあります。


やまざき・まさひろ●1967年、大阪府生まれ。戦史・紛争史研究家。主な著書に『この国の同調圧力』(SB新書)、『未完の敗戦』『日本会議 戦前回帰への情念』(以上、集英社新書)、『太平洋戦争秘史』(朝日新書)、『[増補版]戦前回帰』(朝日文庫)など。

堀川惠子さん

ノンフィクション作家

台湾有事を日本有事のように無邪気に語る人がいます。国民は「戦争は自衛隊が遠くでやってくれるもの」と思っているのではないでしょうか。

 かつての日本がどこで針路を誤ったか、ポイント・オブ・ノーリターン(後戻りできない場所や状況)を突き詰める研究を軍事の専門家らと続けています。昭和に入ってからとの見方もありますが、明治40(1907)年、山県有朋(1838〜1922)が打ち出した「日本帝国ノ国防方針」に注目しています。日露戦争参謀総長だった山県は戦後、19師団(※1師団=平時で約2万人)を50師団にする途方もない目標を掲げました。この時、身の丈を超えた軍事大国化へのスイッチが押されたのではないか、と思います。
 それまでの日本は中国という数千年の歴史を持つ大国に脅かされつつ、戦わずして国を守る、という賢明な生き方を続けてきました。海に囲まれた日本は海上を封鎖されてしまえばすぐにも干上がってしまう、「戦争ができない国」なのです。作家の司馬遼太郎さんは『歴史と視点』(新潮社)の中で、「いわゆる十五年戦争にわずかでも教訓がひきだせるとすれば、そういう当たり前の、小学生並みの地理的常識を再確認した、ということだけである」と述べています。司馬さんの、この一文に尽きると思います。
 いま、国民生活がこれほど厳しいなかで、GDP比2%、5年間で40数兆円という巨額の防衛費が議論も経ずに打ち出されました。自衛隊は、防衛や災害救助の実行部隊として必要なマンパワーと装備を整えるべきだと私は考えています。しかし、それが40数兆円である必要があるのか。身の丈を超えたことを始めたときこそが危ないわけで、現在の動きは「日本帝国ノ国防方針」の再来を思わせます。
 かつて国民は「戦争は兵隊さんがどこか遠いところでやるもの」という前提で、戦争を歓迎しました。日清、日露で国内が戦場にならず、リアルな想像力を欠いた結果です。台湾有事を日本有事かのように無邪気に語る人がいますが、そうした人たちに限らず、国民は「戦争は自衛隊が遠くでやってくれるもの」と思っているのではないでしょうか。いったん始まれば、攻め込まれ、国土を荒らされ、命を奪われる。それが戦争です。戦争体験者がいなくなり、想像力を欠いた議論が飛び交う現状をかつての過ちと重ね合わせ、危惧します。


ほりかわ・けいこ●1969年、広島県生まれ。戦争や死刑制度を主題にした数々の作品が主要なノンフィクション賞を軒並み受賞。第48回大佛次郎賞を受賞した『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』(講談社)では、海上輸送の軽視に警鐘を鳴らした指揮官を軍の中枢が排除し、太平洋の島嶼(しょ)戦で自滅していくプロセスを描いた。

坂上多計二さん

元日本軍兵士

米軍に追われて逃げ回ったフィリピンのジャングルで、戦争の本当の姿を見ました。それを語らずには死ねません。

 私は、敗戦の年にフィリピンのミンダナオ島で、この世のものとは思えない悲惨な出来事に遭遇しました。地獄ですよ。この世では、時に本当の地獄が出現する。「あの経験を語らずに死ねるか!」という思いで、私は今日まで生きてきました。98歳になりましたが、まだ死ねない。戦争の真実を少しでも多くの人に、この口で知らせなきゃならん。それが残された者の責任です。
 日本領だった台湾で生まれた私は戦時中、農業指導者としてミンダナオ島ダバオ市郊外に派遣され、海軍の直営農場で百数十人の台湾人らと食料増産に励んでいました。途中、徴兵で陸軍に入り、その後は現役兵として営農指導を続けた。そして1945年になるわけです。
 5月、米軍がダバオ近郊に上陸し、連日の猛爆撃が始まりました。もう農業どころじゃない。忘れもしない、22日です。迫撃砲弾が私から2〜3メートルほどの場所に落ち、上半身裸の身体に破片が突き刺さった。攻撃は止まず、たくさん人が死にました。足がちぎれたり、腸が飛び出したり……。夜になると、けが人を次々と海軍の野戦病院に運び、必死で助けを求めたのに、軍医は「ダメだ。どうせ、もうじき死ぬ。連れて帰って始末せよ」と。むごいとしか、言いようがない。軍医の声は、けが人に聞こえてるんですよ。
 それからは約30人の隊員とジャングルに逃げ込みました。今度は飢えとの戦いです。草を食って、虫も食って……。ある夜、野営地に日本兵が来た。やっと歩けるくらいに弱りに弱っており、「助けてくれ、わしもここに置いてくれ」と。でも、私はダメだ、と追い返した。水も食料もない。自分らだけで精一杯なんです。
 翌朝、食べ物を探しに外へ出ると、何歩も行かないうちにあの兵隊が倒れて死んでいました。顔のところに家族の写真が3、4枚あって。最後に家族を思い出していたんでしょう。私が追い返したんです。海軍の病院でやられたのと同じことを今度は自分が……。人間、本当に鬼になる。怖いです。
 あるとき、樹木に背をもたれて座り、白い歯を見せて笑っている日本兵に会いました。近づくと、白い歯は口元に湧いたウジだった。白眼に見えた部分もウジ。人間の体は死体になっても、眼と口には水分が残るそうです。ジャングルでは、すぐ、そこにウジが湧く。
 これが戦争です。私の周りで何人もむごい死に方をしましたが、私の経験など戦争のごく一部。もっと凄惨な経験をした人はたくさんいる。「正義の戦争」なんてあるわけがない。いったん戦争を始めたら、全員が敗者になるんです。


さかうえ・たけじ●1925年、台湾生まれ。旧陸軍第100師団独立歩兵第165大隊の兵士として戦争に参加。フィリピン・ミンダナオ島にあった海軍の第103軍需部ダバオ支部で日本軍の兵站を担っていた。鹿児島県姶良市在住。