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背景

 

1933年にナチ党の党首アドルフ・ヒトラーがワイマール共和国首相に就任した。ユダヤ人に対する差別政策など、過酷な政策を推進するナチスに反発し、ヒトラーの暗殺を計画、実行する個人もしくはグループが現れた。 ワイマール共和国およびナチ党政権下における国防軍ナチス党及びヒトラーとの関係は複雑なものであった。ナチスの政策、特にドイツの再軍備、軍備拡張に賛同する将校がいる一方、ナチスの主張や政策、特に国防軍に対するヒトラーや親衛隊の存在に疑問や反発を持つものや、ヒトラーが推し進める軍事力を背景とする領土の拡張政策が周辺国との戦争を引き起こし、ドイツが敗北することに懸念を持つ者もいた。 1938年のドイツによるチェコのズデーテン併合時に計画されたクーデター計画が、国防軍内における反ナチス運動の嚆矢だった。ズデーテン併合によりイギリスおよびフランスから宣戦布告されることをおそれたドイツ陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベックは職を辞し、参謀総長フランツ・ハルダー、アプヴェーア次長のハンス・オスター、第三軍管区司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン、第二十三歩兵師団長エーリヒ・ヘプナーなど反ナチス派将校や民間人を集めてクーデター計画を練った。またクーデター実行犯の中にはアルトゥール・ネーベのような親衛隊の幹部も参加している。計画では臨時政府の元で総選挙を実施し政治を正常化させることになっていたが、ヒトラーの扱いについては、殺害、逮捕および裁判、精神異常者として拘禁するなど意見がまとまらなかった。さらにイギリスの首相ネヴィル・チェンバレンの提案により行われたミュンヘン会談においてイギリスおよびフランスがドイツのズデーテン併合を認めたため、クーデター計画はその根拠を失い中止された。 1939年のポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が勃発し、更に1941年に開始されたソビエト連邦との戦いが泥沼化すると、国防軍将校によるクーデター計画が再燃した。1943年には東部戦線の中央軍集団参謀のヘニング・フォン・トレスコウは、ヒトラーの前線視察時に暗殺する計画を立てた。彼の副官ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフは、ヒトラーの専用機に爆弾を仕掛けたが不具合により起爆せず失敗した。この他にもルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフなどを実行犯とするヒトラー暗殺計画が何度か企てられたが、いずれもスケジュール変更などの事情により決行されなかった。

 

経緯

 

1944年7月15日のヴォルフスシャンツェ。左からシュタウフェンベルク、総統副官プットカマー海軍少将、空軍連絡官ボーデンシャッツ空軍大将(後ろ向きの人物)、ヒトラーカイテル。 1944年6月、英米軍は西部戦線でノルマンディーに上陸し、東部戦線でもソ連軍の攻勢によりドイツの敗色はますます濃くなり、「黒いオーケストラ」グループはヒトラーを排除して英米軍と講和する計画を急ぐようになった。 この頃にはヴィッツレーベン元帥、ベック退役上級大将、ヘプナー退役上級大将、トレスコウ少将の他に、国内予備軍一般軍務局局長フリードリヒ・オルブリヒト大将、陸軍通信部隊司令官エーリッヒ・フェルギーベル大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将、参謀本部編成部長ヘルムート・シュティーフ少将、国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を始め、数多くの将校がグループに加わっていた。 計画 暗殺実行者にはクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が選ばれた。彼は旧ヴュルテンベルク王国の貴族の出で、1943年4月に北アフリカ戦線のチュニジアで負傷し、左目、右腕、左手の指二本を失っていた。そのため彼に対しては警戒も薄く、ボディーチェックもほとんど行われなかった。1944年6月20日、彼は国内予備軍参謀長に任命され、ヒトラーと直接会う機会が増えていた。彼の上官、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将は、グループに加わっていなかったが、彼らの企てを半ば黙認していた。 暗殺には約1 kgの火薬が詰まったドイツ製のプラスチック爆弾を2個用意した。これを爆発させるためには、イギリスから鹵獲した時限装置(英語版)が使われた。これは起爆装置を作動させるスプリングを針金で締め付け、針金を硫酸を使って10分間で溶かし、スプリングを開放するという構造だった。その爆弾を入れた鞄を持ち歩き、暗殺実行可能と判断したら時限装置を作動させる予定だった。

 

繰り返す計画延期

 

1944年7月6日、シュタウフェンベルク大佐は、ベルヒテスガーデンにあるヒトラーの別荘ベルクホーフで行われた会議に出席し、この時初めて爆弾を携帯した。当初、シュティーフ少将が暗殺を決行してくれると期待していたようだが、彼が実行せず失敗した。 7月11日のベルクホーフでの会議。しかしこの日、ヘルマン・ゲーリングとハインリヒ・ヒムラーが出席していなかった。この時点では「黒いオーケストラ」グループは、ヒトラーと共に他のナチス首脳も暗殺すべきだと考えていた。彼らはゲーリングは特に問題視しなかったが、親衛隊指導者ヒムラーは暗殺せねばならないと主張。彼が生存していると、親衛隊と陸軍の間で内乱になる恐れがあったからである。シュタウフェンベルクは会議を抜け出しオルブリヒトに連絡。ヒムラー不在を告げると、オルブリヒトは計画中止を指示。落胆した彼はシュティーフに向かって「こん畜生め!行動すべきではないのか?」と口にしたという。 7月14日、ヒトラーは予告なしでベルクホーフから、東プロイセンのラステンブルクの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の砦)」へ移動。一方、シュタウフェンベルクは、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将と共に7月15日に出頭し、東部戦線へ投入する新しい師団の立ち上げについて報告するよう命じられた。彼は1942年秋以来「ヴォルフスシャンツェ」へ行った事が無く土地勘は無かったが、今やヒトラーがベルクホーフに戻るのを待つ時間は無く、総統大本営での暗殺決行を決意した。 2人がベルリンを発った後、ベントラー街のオルブリヒト大将とその副官アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐は、フロムの留守を好機に「ヴァルキューレ作戦」を発動。ベルリン郊外の陸軍学校と予備訓練部隊に最高レベルの緊急出動態勢を取らせた。事前に「ヴァルキューレ作戦」を発動したのはこの時だけだった。 7月15日もヒムラーは会議には出席していなかった。彼の欠席を確認後、シュタウフェンベルクは会議室を抜け出し、ベルリンのクイルンハイム大佐に連絡。ヒムラー不在だが、それでも決行したいので許可が欲しい旨を伝えた。クイルンハイムはそれをオルブリヒト、さらにベック、ヘプナーにも伝えたが、将軍たちは計画中止を命じる。シュタウフェンベルクは「僕ら2人で決めるしかない」と言い、将軍たちの指示を無視する事を提案した。クイルンハイムも「やりたまえ」と答えたが時すでに遅し、会議はその後すぐに終了してしまった。一方、オルブリヒトたちは「あれは演習だった」としてベルリンの警戒態勢を解除して取り繕った。後刻この「間違った警報」の件でカイテル元帥がフロム上級大将を叱責し、さらにフロムがオルブリヒトを叱った。ただ、かろうじてクーデターの真意は隠し通せた。シュタウフェンベルクは意気消沈してベルリンへ戻ると、クイルンハイムと話し合う。2人は、次のチャンスには将軍たちの意向は無視しよう、ということで一致した。 7月19日、翌20日午後1時から総統大本営で開かれる作戦会議に予備軍幕僚を派遣するよう再び命令が下り、シュタウフェンベルクと副官ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉が出頭する事になり、今回はフロムは招集されなかった。このように、1944年7月には、何度か暗殺計画が企てられたが、決行せずに延期が繰り返された。

 

計画実行

 

1944年7月20日の会議参加者の氏名と位置 爆発後の会議室 爆発当時の人物配置図。黄色い四角が爆弾。青丸がヒトラー、赤丸が死亡者、白丸はその他の参加者。 7月20日午前6時頃、シュタウフェンベルクらは飛行機で総統大本営に向かった。しかし到着後、午後1時開催予定の作戦会議は、ムッソリーニ来訪のため30分繰り上がり、午後0時30分開催へと変更を告げられた。一方、ベルリン・ベンドラー街の国内予備軍司令部にはオルブリヒト、クィルンハイム、ヘプナーなど反乱派が集まり、暗殺実行を機に「ヴァルキューレ」作戦を発動すべく待機していたが、彼らは予定が繰り上がった事を知らなかった。 午後0時30分過ぎ、爆弾の起爆装置を作動させた鞄を持って、シュタウフェンベルクが会議場に入った時には、すでに会議は始まっていた。午後0時37分頃、爆弾入り鞄を作戦会議場の巨大なテーブルの下に押し入れ、ベルリンへ電話をかける名目で会議場を後にした。午後0時42分、轟音と共に爆弾は炸裂し、会議室は破壊された。 爆発により、速記者ハインリヒ・ベルガー( Heinrich Berger)は両足を失いほぼ即死。陸軍参謀本部作戦課長・総統副官ハインツ・ブラント大佐は片足を失い、空軍参謀総長ギュンター・コルテン大将は腹部に重傷を負い二人とも2日後に死亡。総統副官のルドルフ・シュムント中将は、腰部の重傷で10月1日に死亡。残りの参席者も重軽傷を負った。ヒトラーは打撲と火傷、鼓膜を損傷したが症状としては軽症で済み、生き残っていた。