一
或春の日暮です。
唐の都
洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。
若者は名は
杜子春といつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を
費ひ
尽して、その日の暮しにも困る位、
憐な身分になつてゐるのです。
何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、
往来にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた
紗の帽子や、
土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の
手綱が、絶えず流れて行く
容子は、まるで画のやうな美しさです。
しかし
杜子春は相変らず、門の壁に身を
凭せて、ぼんやり空ばかり眺めてゐました。空には、もう細い月が、うらうらと
靡いた霞の中に、まるで爪の
痕かと思ふ程、かすかに白く浮んでゐるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行つても、泊めてくれる所はなささうだし――こんな思ひをして生きてゐる位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまつた方がましかも知れない。」
杜子春はひとりさつきから、こんな取りとめもないことを思ひめぐらしてゐたのです。
するとどこからやつて来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目
眇の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、ぢつと
杜子春の顔を見ながら、
「お前は何を考へてゐるのだ。」と、
横柄に言葉をかけました。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」
老人の尋ね方が急でしたから、
杜子春はさすがに眼を伏せて、思はず正直な答をしました。
「さうか。それは可哀さうだな。」
老人は
暫く何事か考へてゐるやうでしたが、やがて、往来にさしてゐる夕日の光を指さしながら、
「ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今この夕日の中に立つて、お前の影が地に映つたら、その頭に当る所を夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」
「ほんたうですか。」
杜子春は驚いて、伏せてゐた眼を挙げました。所が更に不思議なことには、あの老人はどこへ行つたか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりも
猶白くなつて、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い
蝙蝠が二三匹ひらひら舞つてゐました。
二
杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人といふ大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそつと掘つて見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。
大金持になつた
杜子春は、すぐに立派な家を買つて、
玄宗皇帝にも負けない位、
贅沢な暮しをし始めました。
蘭陵の酒を買はせるやら、桂州の
竜眼肉をとりよせるやら、日に四度色の変る
牡丹を庭に植ゑさせるやら、
白孔雀を何羽も放し飼ひにするやら、玉を集めるやら、錦を縫はせるやら、
香木の車を造らせるやら、
象牙の椅子を
誂へるやら、その贅沢を一々書いてゐては、いつになつてもこの話がおしまひにならない位です。
するとかういふ
噂を聞いて、今までは路で行き合つても、挨拶さへしなかつた友だちなどが、朝夕遊びにやつて来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、
杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になつてしまつたのです。
杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々口には尽されません。
極かいつまんだだけをお話しても、
杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、
天竺生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれてゐると、そのまはりには二十人の女たちが、十人は
翡翠の蓮の花を、十人は
瑪瑙の牡丹の花を、
いづれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏してゐるといふ景色なのです。
しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに
贅沢家の
杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。さうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通つてさへ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又
杜子春が以前の通り、一文無しになつて見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸さうといふ家は、一軒もなくなつてしまひました。いや、宿を貸す所か、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行つて、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立つてゐました。するとやはり昔のやうに、片目
眇の老人が、どこからか姿を現して、
「お前は何を考へてゐるのだ。」と、声をかけるではありませんか。
杜子春は老人の顔を見ると、恥しさうに下を向いた
儘、
暫くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切さうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じやうに、
「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考へてゐるのです。」と、恐る恐る返事をしました。
「さうか。それは可哀さうだな、ではおれが好いことを一つ教へてやらう。今この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その胸に当る所を、夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」
老人はかう言つたと思ふと、今度も
亦人ごみの中へ、掻き消すやうに隠れてしまひました。
杜子春はその翌日から、
忽ち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、
仕放題な贅沢をし始めました。庭に咲いてゐる牡丹の花、その中に眠つてゐる白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使――すべてが昔の通りなのです。
ですから車に一ぱいあつた、あの
夥しい黄金も、又三年ばかり
経つ内には、すつかりなくなつてしまひました。
三
「お前は何を考へてゐるのだ。」
片目眇の老人は、三度
杜子春の前へ来て、同じことを問ひかけました。勿論彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破つてゐる三日月の光を眺めながら、ぼんやり
佇んでゐたのです。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思つてゐるのです。」
「さうか。それは可哀さうだな。ではおれが好いことを教へてやらう。今この夕日の中へ立つて、お前の影が地に映つたら、その腹に当る所を、夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの――」
老人がここまで言ひかけると、
杜子春は急に手を挙げて、その言葉を
遮りました。
「いや、お金はもう入らないのです。」
「金はもう入らない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまつたと見えるな。」
老人は
審しさうな眼つきをしながら、ぢつと
杜子春の顔を見つめました。
「何、贅沢に飽きたのぢやありません。人間といふものに愛想がつきたのです。」
杜子春は不平さうな顔をしながら、
突慳貪にかう言ひました。
「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」
「人間は皆薄情です。私が大金持になつた時には、世辞も
追従もしますけれど、一旦貧乏になつて御覧なさい。
柔しい顔さへもして見せはしません。そんなことを考へると、たとひもう一度大金持になつた所が、何にもならないやうな気がするのです。」
老人は
杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑ひ出しました。
「さうか。いや、お前は若い者に似合はず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか。」
杜子春はちよいとためらひました。が、すぐに思ひ切つた眼を挙げると、訴へるやうに老人の顔を見ながら、
「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になつて、仙術の修業をしたいと思ふのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でせう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になつて、不思議な仙術を教へて下さい。」
老人は眉をひそめた儘、暫くは黙つて、何事か考へてゐるやうでしたが、やがて又につこり笑ひながら、
「いかにもおれは
峨眉山に
棲んでゐる、
鉄冠子といふ仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好ささうだつたから、二度まで大金持にしてやつたのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやらう。」と、快く願を
容れてくれました。
杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に
御時宜をしました。
「いや、さう御礼などは言つて貰ふまい。いくらおれの弟子にした所で、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第できまることだからな。――が、兎も角もまづおれと一しよに、
峨眉山の奥へ来て見るが好い。おお、
幸、ここに竹杖が一本落ちてゐる。では早速これへ乗つて、一飛びに空を渡るとしよう。」
鉄冠子はそこにあつた青竹を一本拾ひ上げると、口の中に
呪文を唱へながら、
杜子春と一しよにその竹へ、馬にでも乗るやうに
跨りました。すると不思議ではありませんか。竹杖は
忽ち竜のやうに、勢よく大空へ舞ひ上つて、晴れ渡つた春の夕空を
峨眉山の方角へ飛んで行きました。
杜子春は
胆をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に
紛れたのでせう。)どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い
鬢の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱ひ出しました。
朝に北海に遊び、暮には
蒼梧。
袖裏の
青蛇、
胆気粗なり。
三たび
嶽陽に入れども、人識らず。
朗吟して、
飛過す
洞庭湖。
四
二人を乗せた青竹は、間もなく
峨眉山へ舞ひ下りました。
そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光つてゐました。元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返つて、やつと耳にはひるものは、後の絶壁に生えてゐる、曲りくねつた一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は
杜子春を絶壁の下に坐らせて、
「おれはこれから天上へ行つて、
西王母に御眼にかかつて来るから、お前はその間ここに坐つて、おれの帰るのを待つてゐるが好い。多分おれがゐなくなると、いろいろな
魔性が現れて、お前をたぶらかさうとするだらうが、たとひどんなことが起らうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙つてゐるのだぞ。」と言ひました。
「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなつても、黙つてゐます。」
「さうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行つて来るから。」
老人は
杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に
跨つて、夜目にも削つたやうな山々の空へ、一文字に消えてしまひました。
杜子春はたつた一人、岩の上に坐つた儘、静に星を眺めてゐました。すると
彼是半時ばかり経つて、深山の夜気が肌寒く薄い着物に
透り出した頃、突然空中に声があつて、
「そこにゐるのは何者だ。」と叱りつけるではありませんか。
しかし
杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにゐました。
所が又暫くすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないと立ち所に、命はないものと覚悟しろ。」と、いかめしく
嚇しつけるのです。
杜子春は勿論黙つてゐました。
と、どこから登つて来たか、
爛々と眼を光らせた虎が一匹、
忽然と岩の上に躍り上つて、
杜子春の姿を睨みながら、一声高く
哮りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思ふと、後の絶壁の頂からは、四斗樽程の
白蛇が一匹、炎のやうな舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。
杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐つてゐました。
虎と蛇とは、一つ餌食を狙つて、互に隙でも
窺ふのか、暫くは睨合ひの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に
杜子春に飛びかかりました。が、虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、
杜子春の命は
瞬く内に、なくなつてしまふと思つた時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、後には唯、絶壁の松が、さつきの通りこうこうと枝を鳴らしてゐるばかりなのです。
杜子春はほつと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待つてゐました。
すると一陣の風が吹き起つて、墨のやうな黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにはに闇を二つに裂いて、凄じく
雷が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しよに
瀑のやうな雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。
杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく坐つてゐました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの
峨眉山も、
覆るかと思ふ位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が
轟いたと思ふと、空に渦巻いた黒雲の中から、まつ赤な一本の火柱が、
杜子春の頭へ落ちかかりました。
杜子春は思はず耳を抑へて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡つて、向うに
聳えた山山の上にも、茶碗程の北斗の星が、やはりきらきら輝いてゐます。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じやうに、
鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の
悪戯に違ひありません。
杜子春は
漸く安心して、額の冷汗を拭ひながら、又岩の上に坐り直しました。
が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐つてゐる前へ、金の
鎧を
着下した、身の丈三丈もあらうといふ、厳かな神将が現れました。神将は手に
三叉の
戟を持つてゐましたが、いきなりその戟の切先を
杜子春の胸もとへ向けながら、眼を
嗔らせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、その方は一体何物だ。この
峨眉山といふ山は、天地
開闢の昔から、おれが
住居をしてゐる所だぞ。それも
憚らずたつた一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかつたら、一刻も早く返答しろ。」と言ふのです。
しかし
杜子春は老人の言葉通り、
黙然と口を
噤んでゐました。
「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの
眷属たちが、その方をずたずたに斬つてしまふぞ。」
神将は
戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさつと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に
充満ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしてゐるのです。
この景色を見た
杜子春は、思はずあつと叫びさうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思ひ出して、一生懸命に黙つてゐました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒つたの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとつてやるぞ。」
神将はかう
喚くが早いか、
三叉の
戟を
閃かせて、一突きに
杜子春を突き殺しました。さうして
峨眉山もどよむ程、からからと高く笑ひながら、どこともなく消えてしまひました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しよに、夢のやうに消え失せた後だつたのです。
北斗の星は又寒さうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせてゐます。が、
杜子春はとうに息が絶えて、
仰向けにそこへ倒れてゐました。
五
杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れてゐましたが、
杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
この世と地獄との間には、
闇穴道といふ道があつて、そこは年中暗い空に、氷のやうな冷たい風がぴゆうぴゆう吹き
荒んでゐるのです。
杜子春はその風に吹かれながら、暫くは
唯木の葉のやうに、空を漂つて行きましたが、やがて
森羅殿といふ額の懸つた立派な御殿の前へ出ました。
御殿の前にゐた大勢の鬼は、
杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまはりを取り捲いて、
階の前へ引き据ゑました。階の上には一人の王様が、まつ黒な
袍に金の
冠をかぶつて、いかめしくあたりを睨んでゐます。これは兼ねて
噂に聞いた、
閻魔大王に違ひありません。
杜子春はどうなることかと思ひながら、恐る恐るそこへ
跪いてゐました。
「こら、その方は何の為に、
峨眉山の上へ坐つてゐた?」
閻魔大王の声は雷のやうに、階の上から響きました。
杜子春は早速その問に答へようとしましたが、ふと又思ひ出したのは、「決して口を利くな。」といふ鉄冠子の戒めの言葉です。そこで唯頭を垂れた儘、
唖のやうに黙つてゐました。すると
閻魔大王は、持つてゐた鉄の
笏を挙げて、顔中の
鬚を逆立てながら、
「その方はここをどこだと思ふ?
速に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の
呵責に
遇はせてくれるぞ。」と、
威丈高に
罵りました。
が、
杜子春は相変らず
唇一つ動かしません。それを見た
閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言ひつけると、鬼どもは一度に
畏つて、忽ち
杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞ひ上りました。
地獄には誰でも知つてゐる通り、
剣の山や血の池の外にも、
焦熱地獄といふ焔の谷や
極寒地獄といふ氷の海が、真暗な空の下に並んでゐます。鬼どもはさういふ地獄の中へ、代る代る
杜子春を
抛りこみました。ですから
杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の
杵に
撞かれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒蛇に脳味噌を吸はれるやら、熊鷹に眼を食はれるやら、――その苦しみを数へ立ててゐては、到底際限がない位、あらゆる
責苦に遇はされたのです。それでも
杜子春は我慢強く、ぢつと歯を食ひしばつた儘、一言も口を利きませんでした。
これにはさすがの鬼どもも、呆れ返つてしまつたのでせう。もう一度夜のやうな空を飛んで、森羅殿の前へ帰つて来ると、さつきの通り
杜子春を
階の下に引き据ゑながら、御殿の上の
閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言ふ
気色がございません。」と、口を揃へて
言上しました。
閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れてゐましたが、やがて何か思ひついたと見えて、
「この男の
父母は、
畜生道に落ちてゐる筈だから、早速ここへ引き立てて来い。」と、一匹の鬼に云ひつけました。
鬼は忽ち風に乗つて、地獄の空へ舞ひ上りました。と思ふと、又星が流れるやうに、二匹の獣を駆り立てながら、さつと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た
杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといへばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。
「こら、その方は何のために、
峨眉山の上に坐つてゐたか、まつすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思ひをさせてやるぞ。」
杜子春はかう
嚇されても、やはり返答をしずにゐました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さへ都合が好ければ、好いと思つてゐるのだな。」
閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまへ。」
鬼どもは一斉に「はつ」と答へながら、鉄の
鞭をとつて立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、
未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりうりうと風を切つて、所嫌はず雨のやうに、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になつた父母は、苦しさうに身を
悶えて、眼には血の涙を浮べた儘、見てもゐられない程
嘶き立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか。」
閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度
杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに
階の前へ、倒れ伏してゐたのです。
杜子春は必死になつて、鉄冠子の言葉を思ひ出しながら、
緊く眼をつぶつてゐました。するとその時彼の耳には、
殆声とはいへない位、かすかな声が伝はつて来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と
仰つても、言ひたくないことは黙つて
御出で。」
それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。
杜子春は思はず、眼をあきました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、ぢつと眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む
気色さへも見せないのです。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。
杜子春は老人の戒めも忘れて、
転ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。……
六
その声に気がついて見ると、
杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでゐるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ
峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目
眇の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、
反つて嬉しい気がするのです。」
杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」
「もしお前が黙つてゐたら――」と鉄冠子は急に
厳な顔になつて、ぢつと
杜子春を見つめました。
「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が
罩つてゐました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇はないから。」
鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出してゐましたが、急に又足を止めて、
杜子春の方を振り返ると、
「おお、
幸、今思ひ出したが、おれは泰山の南の
麓に一軒の家を持つてゐる。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、さも愉快さうにつけ加へました。
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蒼馬(草馬)さん、私があなたの仙人であったとしよう。
あなたの《存在性理論》、《存在性思想》が、【
ポスト構造主義】に代わる、叡智の結晶書籍である
などという妄言は仙人の私でもあなたの願いを叶えることはできない。
あなたには、あなただけの良さがある。書籍なんて捨てて、あなたが吐く妄言の《自称哲学》は捨てて、
釣りすぎないように、福岡市の《釣り場》で魚でも釣りながら、「
アルプスの少女ハイジ」的、若しくは、「山ネズミロッキーチャック」的、若しくは、「アライグマ ラスカル」的にあなたの老後の日々を過ごされた方があなたには良いのではないのか、と私は思うのだが、ね。
じゃ