私が高校での野球を選んだのは静岡県の当時毎年県大会ベスト8位内の

 当時の強豪校「焼津水産高校」、私は無名中学から自ら志願して入部した一人同学年は中学県大会準優勝メンバー、強豪校出身者

 など同学年50名程入部、いきなり洗礼を浴びたそれは外野でボール拾いのみキャッチボールは全くさせてもらえず、ひたすら

 外野の後方でボールを拾う毎日で1年時は夏大会の補助スタッフ、しかし自ら志願して入部した私には覚悟があった。

 

「周りを見返す事に覚悟」した、その為にはまず「同学年最後まで残ればチャンスはあるはず」という信念と「人一倍練習する事、それは見えないところでする努力を指します」、昭和時代パワハラや強烈なハラスメントは普通、監督はことある毎に辞めちまえ、練習来なくていい、バットで殴る、足蹴りされても私含め皆それでも皆監督へついていった、その後の監督のフォローは練習後何気に声をかけてくれてフォローはつきものでした、現代では何でもハラスメントやパワハラを平気で口にする方が多いのですがフォローがあればすべてとは言えない気もします、従って次の日又気持ちを切り替え練習へ参加できたのでした。

 

 3年生が去り、1.2年生のチームになり夏の強化練習(休日なし、9時~18時)が終わった頃同学年は50人から20人へ激変大半は

夏の強化練習に耐えきれず退部したのでした、私も付いていけない日もあり一時は退部もよぎったのですが、自ら無名校から志願してようやくくキャッチボールやバッティングさせていただくとこまで来た、やめるわけにはいかない「学校の練習は自分をアピールする場」と考えていた私は、平日練習終了は22時その後自宅帰宅後3Kのランニングと素振り500本は日課となっていました、そして翌2年夏私に監督から頑張ったからと夏県大会14番をいただきベンチ入り、そして代打で1打席立たせていただいた、残念ながら結果は残せなかったのですが、変わらず覚悟して臨んだ1年後3年夏県大会では背番号「5」をいただき優勝圏内の1校と言われましたが1回戦第一シード校に3-2で逆転負けを喫し当時の1回戦の観客9000人はその島田球場の記録となっていると思います、私は逆転2塁打を記録した当時を鮮明に覚えています、3年退部時同学年は12名でした俳優も先日のオリンピックもそうですがアスリートも俳優も

「覚悟」は必要だと思ってます。