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無題

いろいろと

フラニーとゾーイー (新潮文庫)/新潮社

¥500
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☆内容紹介

Amazonの内容説明を載せようと思ったけど、あまりに緻密に書かれているのでやめました。
爆笑問題の太田さんが、コメントしているのでぜひ。



☆感想

あとがきにも書かれていたが、簡潔な描写でもこの本に出てくる人物たちがどんな性格でどんな背景を持っているか、その生活ぶりや普段の立ち振る舞いを想像できる。

『フラニー』では、彼氏のレーン君のインチキ臭さとか、大学生にありがちな自意識の過剰さと見栄が、まざまざと描かれていた。
(さすがに寒いのに格好つけて薄手のバーバリーのレインコートを着て、
中にあったかいウールの裏地をつけている周到さにまでは気付かなかった)

思わずフラニーと一緒に苛立ちながら読んだ。と同時に、楽しい休暇を過ごす気満々で来たのに、
どうしても相手の行動に見え隠れする自己顕示欲やナルシシズムに突っかからずにはいられない憤懣と、そういう自分の考えや衝動における正当性の揺らぎは、なんとなく私の記憶にもあるような気がしてならなかった。

思うにフラニーは、殉教者ぶってみんなに対して孤軍奮闘したいわけではないし、
レーンやタッパー教授といった人々を心から軽蔑したいわけではなかったはずだ。

どうしても我慢ならない一部分を軽蔑し、軽蔑することが正しいと信じたい一方で、
ゾーイーの言うように「間違っているのは彼らではなく自分達だ」という思いも否定できずに、
『巡礼の道』に逃げているように思えた。

それでも十分キリストの祈りを唱えるには不純な動機と捉えられるかもしれないが。

差別したり横暴な態度をとらない善意に満ちたキリストを、十歳のフラニーが望んでいたことや、
現在でも彼女がその「神はこうあるべき」という感情を捨てきれないでいることは、
偽りの愛や美や知に対して嫌悪する心に結びついているような気がする。

結局のところ、偽りのないありのままのキリストは、いろんなものを歪めている彼女が我慢ならない人たちとそっくりなのだ。

飲まず食わずで母のベシーが作ってくれた「おいしいあったかいチキン・スープ」すら拒絶して
落ち込み続けるフラニーは、世の中にまいってしまい心神喪失しているようにも見えるけれど、
実際その行動の理由の幾分かにはそういう自分を見せたい、演じたいという隠し切れない無意識のうちの欲求が含まれている。

そのような妹を見て、皮肉や冗談を交えながら饒舌に語り続けるゾーイーからはやはり家族愛を感じるし、それは自分と似た者や同じ道を歩いてきた者への親愛とも取れる。

宗教のことはよくわからないが、現代になってキリスト教、というか神という存在が神聖で崇高とは呼べないものに変貌したのをなんとなく感じた。

より身近で、私たちの日常の中に存在するものになった。

それが良いか悪いかは置いておくとして、フラニーとゾーイーの中で、神は完璧で嘘偽りない絶対的な善で常に天の上にいるものではない。

神は『太っちょのオバサマ』であり、『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もいないということになった。
そのおかげでフラニーは微笑みを取り戻し、夢もない眠りにつけたのだ。