考察〜カルヴィニズム・資本主義・盲目の現代社会〜 | 無題

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いろいろと

全ては最初から決まっている。
私たちの行き先。天国も地獄も。
全てはあなたがこの世に生を授かったその瞬間から、決まっている。
どんなに善業を行おうと、教会に寄進しようと、悪事をはたらこうと、変えることはできない。
人間は神の創造物にすぎず、創造物が足掻いたところで神の決定は変更できないのだから。

これがカルヴァンの唱えた「予定説」だ。 カトリックに抗うプロテスタント達に大きな影響を与えた。 教会に通い、祈り、忠誠を誓い、死後の世界への希望を持っていた人々にとって、この思想はどれぐらいの破壊力を持った衝撃だったのだろう。
救済を信じ身を投じてきたことが否定された気分にはならなかったのか?
そして何のメリットがあってその思想に共鳴したのか?

当時、労働が必要だった人々にとって、カトリックの「利益追求」に対する否定的な教えは不都合だった。カルヴァンの唱えた「予定説」おいては、確実な行き先は誰にもわからない、としていながらも、禁欲的な生活をすることで救済される「証」を得ることができる、と教えられていた。
つまり、労働を肯定したばかりか、それに勤しむことで「天国へいける確証」を得ることができると解釈させたのだ。
それは、人々がプロテスタントに寝返る理由としては十分だったはずだ。
一見、自分は天国行きか地獄行きかが最初から決まっていると分かれば、努力する意義を見失い、享楽に溺れ、社会は堕落したものになってしまうのではないかと思えるが、当時の人々はそうではなかった。
自分は救済されるべき人間であるという確証を得るために、労働に燃えたのだ。自分が神の創造物であり、神の栄光のためだけの存在であることを認めながら。
そしてそれが現代に栄える資本主義社会を作り出したとされている。

しかしこれは日本人の私達にとっては信じがたい話である。日本人の大半は信仰する宗教をもたない。クリスマスは盛大に、お正月はお参りに、ピンチの時は「神様仏様…」唱えるぐらいだ。死後の世界についてはどうだろうか、特に宗教を意識しない人々にとっては、今ここにある現実の価値とは比較にもならない存在ではないか。ただ漠然と、天国のおじいちゃんにあえるかな…とか、無になるのかもしれない…とか、ほとんどの人はそのぐらいにしか考えていないと私は思う。
私たちは死後、どこへ行くかわからないのだ。これは、予定説に似たようなものなのかもしれない。
死後の世界に価値を置いてない私たちの、明確な終着点は「死」そのものである。言い換えれば、生まれてきたその瞬間から死ぬことは決まっている。
そう考える限りは「生」は虚無だ。どんなに勤勉に働こうと名誉を勝ち取ろうとゴールは死滅である。それをわかっていながら、何故こうも秩序を守り、道徳を訴え、愛は至高だと語り、生きようとする人が多いのだろうか。
ここで、カルヴィニズムに共鳴する人々へ抱いた疑問と同じ疑問が生まれてくる。 しかしここは日本で、労働を邪視する思想はない。利益を求めることは自由で、不都合を解決する思想を求める必要はない。それなのに、この虚無的な人生のルートを誠実に歩もうとするのが「人間」だ。
破滅要因に囲まれながらも私たちは、生きている。そればかりか、これが容易でないことになどほとんどの人は気づきもしない。
いや、気づかないように目をそらしているのかもしれない。
愚劣さを知れば、それを受け入れるか嘲笑するか、もしくは落胆から死を選んでしまうだろう。どれにしても人間は辛酸を舐めることになる。
だからこそその恐怖から逃げるように光を模索し、誠実に生き、自分こそが光を与えられるべき存在であるという確信や自己満足を得ようとするのかもしれない。
それゆえに死に目を向けよりも、現在に価値を置くことの方が正当だと思いこむ。
日本人にとって終着点、結果を見据えた行動はタブーである、むしろ巧みに隠蔽されて存在にすら気づかないのだ。

このような特徴は今騒がれているエコロジーや、動物愛護の運動にも見られる。
それらは人間のエゴイズムにすぎない。
価値観の押しつけだ。
人間が良かれと思ってやっていることだ。
絶滅の危機に瀕した動物を見て、ある人は「かわいそう」と言う。
なぜ?
あなたが食べている牛と、あなたに害があるからと殺した蚊と、 その絶滅しかけた動物の違いは何?
仮にエコロジーに徹したとすれば何が守れる?
あなたの家庭?
ライフライン?
あなたが食すための、もしくはあなたが人生で関わらないであろう生物たち?
何百年後の子孫を守るメリットは何?

馬鹿げていると思わない人のほうがまともな人間なのかもしれない。慈悲にあふれた、道徳的な人物かもしれない。

しかし、そのような概念は誰かが作ったものだ。価値観は個人のものだ。
皆が共通して同じ価値観だと考えるのは大間違いだ。
人間が動物や自然を守ろうなんて、おごりたかぶった考えである。
「自然を守ろう、動物を救おう」なんてコピーは、それこそ傲慢の象徴だ。

人間に都合の良い地球にするために私たちは先代が撒いた種を掘り返し、あけた穴をふさぐ作業を、さも弱いものを助けるかのように我が物顔で訴えている。
生臭い話には綺麗な蓋をする。
美しいコピーには貪欲さなど感じない。
本来の目的、求める結果を公にするのはやはりタブーなのだ。

これを偽善と呼ぶのかはわからない。
皆が絶対的な善だと信じて疑わないからだ。

世の中には人間が決めたものであふれている。
愛、正義、道徳…

絶対など存在しない。

どんなに自分が他者のために尽くそうと、生きている限り(どこまでが生きているというのかもわからないが)利己的であるのは避けられない事実なのかもしれない。