◆天草諸島沖で沈没した軽巡洋艦「長良」
1944年(昭和19年)8月6日に那覇から疎開者を乗せて鹿児島に入港し、疎開者を上陸させた軽巡洋艦「長良」は翌7日、佐世保に向けて鹿児島を出港。
航海は順調と思われたが、熊本県天草諸島の西方沖で、米ガトー級潜水艦「クローカー」に探知され雷撃を受けた。
「クローカー」は、後部発射管から4本の魚雷を射出。「長良」はジグザグ航行で魚雷をかわしたため、「クローカー」は命中を諦めかけた。
ところが、なぜか「長良」は進路を戻してきた。そこに1本の魚雷が「長良」の右舷後部に命中し、ほどなくして「長良」は沈没した。
中原義一郎艦長(1944年5月8日〜1944年8月7日)以下348名が戦死、237名が救助された。
戦後、艦名は海上自衛隊のもがみ型護衛艦「ながら」に受け継がれている。
◆艦歴
●太平洋戦争開戦時
1941年12月8日にパラオから出撃し、12月12日にレガスピー攻略に従事。泊地の警戒などを行なった。この時、敵機の銃撃により「長良」は戦死者1名を出す。
12月13日に「長良」と第二十四駆逐隊は奄美大島へ移動した。奄美大島で第二十四駆逐隊は、第十六駆逐隊第一小隊などとともに第四護衛隊(旗艦は長良)を編成し、ラモン湾上陸作戦に参加する。
12月17日、第四護衛隊は上陸部隊を乗せた船団を護衛して奄美大島から出撃。
12月24日に上陸が行われ、12月30日に「長良」はラモン湾を離脱した。
●蘭印作戦時
1942年1月2日、蘭印作戦に参加するためダバオに到着した「長良」は、東方攻略部隊の第一根拠地部隊の旗艦になった。
最初の攻略目標であるメナド沖に1月11日に到着し、付近を浮上して航行する潜水艦を発見して攻撃した。
メナドの次目標であるケンダリー攻略中の1月25日、雨で視界が悪い中、駆逐艦初春と衝突した長良は、ダバオで工作艦明石による修理を受けた。修理完了後、バリ島攻略の後方支援に参加する。
2月19日にバリ島沖海戦が発生するが、戦闘には間に合わなかった。
3月31日にはクリスマス島攻略戦に参加し、軽巡洋艦3隻の水偵は爆撃を行なった。
4月10日「長良」は第一航空艦隊第十戦隊に編入された。
4月11日に舞鶴にて、艦橋前の13ミリ4連装機銃の九三式13ミリ連装機銃1基への換装などを行った。
6月5日のミッドウェー海戦に参加し、空母赤城の沈没を受けて、第1航空艦隊司令部が移譲、旗艦となった。
●ソロモン海戦
8月24日の第二次ソロモン海戦、続いて10月26日の南太平洋海戦に参加し、損傷なくトラック諸島へと帰還した。
11月12日からの第三次ソロモン海戦では、戦艦比叡、霧島を護衛し、海戦にも参加した。この海戦で被弾するも、駆逐艦プレストンを駆逐艦綾波と共同で撃沈する戦果を挙げた。その後、「長良」は呉に入港し、しばらく停泊することになる。
呉に入港していた「長良」は、1944年6月15日のアメリカ軍によるサイパン島上陸、6月21日のマリアナ沖海戦での日本の敗北を受けて、小笠原諸島防衛の輸送任務に従事し、7月1日に父島二見に入港し、輸送任務を果たした。
7月14日からは、沖縄への呂号輸送作戦に従事し、8月5日に那覇から疎開者をつれて出港して6日に鹿児島に入港、疎開者を上陸させた。
●佐世保へ向かう途中で沈没
1944年(昭和19年)8月6日に那覇から疎開者を乗せて鹿児島に入港し、疎開者を上陸させた軽巡洋艦「長良」は翌7日、佐世保に向けて鹿児島を出港。
航海は順調と思われたが、熊本県天草諸島の西方沖で、米ガトー級潜水艦「クローカー」に探知され雷撃を受けた。
「クローカー」は、後部発射管から4本の魚雷を射出。
「長良」はジグザグ航行で魚雷をかわしたため、「クローカー」は命中を諦めかけた。
ところが、なぜか「長良」は進路を戻してきた。そこに1本の魚雷が「長良」の右舷後部に命中し、ほどなくして「長良」は沈没した。
沈没する様子はカラー映像として「クローカー」により記録されている。
中原義一郎艦長(1944年5月8日〜1944年8月7日)以下348名が戦死、237名が救助された。
●名称は海上自衛隊の護衛艦に受け継がれ、侵略戦争に参加した汚名を挽回し、今度は国土を護る名称へ生まれ変わる
戦後、艦名は海上自衛隊のもがみ型護衛艦「ながら」に受け継がれている。





