『ゲド戦記』は原作の「アーシュラ・K・ル=グウィン著ゲド戦記」をスタジオジブリが映画化した作品です。

筆者は原作を読んでいないので、興味なかったのですが、たまたま放送されていたのを興味本位で見ていると、最後まで見てしまいました。

これは、途中で見るのをやめてしまうことなく、結末まで見る側を惹き付けるほどの力があることを示しています。
映画としてテーマがあり、見せ場もあるということです。

序盤の主人公に関しては、なんとなく父親を殺害し、完全にキレた感じで乱闘するうえ、人助けするためなら、躊躇なく人を殺してしまうくらい、キレてます。

この主人公と重なって「なんだ、男か」と言われて殴りかかり、尋問の際に暴行を受けたMPにガンダムMk-Ⅱのバルカンを笑いながら浴びせ「痛さと怖さを教えてやろうか」と意気揚々と喋っていたシーンを彷彿したのは、筆者だけではないでしょう。


このように、何かしらの贖罪を抱えてる主人公がいないと見る側は飽きてしまいます。宮崎アニメなら、『未来少年コナン(コナンは世界を滅ぼした科学者の子供で、親の罪を背負っている)』、『風の谷のナウシカ(腐海遊びばかりしている)』、『天空の城ラピュタ(パズーはシータを売り、金貨を受けとる)』、『紅の豚(ポルコは豚にされている)』、『崖の上のポニョ(親のいいつけに背く)』などが挙げられます。

他にも、『宇宙戦艦ヤマト(古代が無断出撃し、軍規違反を犯す)』、『機動戦士ガンダム(民間人による軍機密無断使用)』、『超時空要塞マクロス(アクロバット飛行中のバルキリー編隊にエアレーサーで乱入する)』など数多くあります。

この映画の方向性としては、主人公が抱えてる闇を克服していく話なので、序盤で何かしらの闇が視覚的にないとモヤモヤしたままストーリーが進行してしまうので整合性はとれています。景観の描写にも目を見張るものがあります。特に、構造物のスケール感や地形の描写はリアルです。

一方で『原作と違う』という評価が多く見受けられます。ここで重要なのは『よりよい映画を製作するためには、原作を変える必要性があるため、原作と異なるのは当然のこと』と切り分けることです。

映画は『観客をどれだけ惹き付けるか』が求められ、原作を倣っているなら、見なくても結末が分かるので映画を製作する必要がないのです。そこで、原作と違う箇所を見せることで観客を楽しませるのです。

それは同時に、原作を期待する人や原作者の意図を無視することにつながります。
裏を返せば、原作が存在しても映画の本質として限られた時間の中で、1つの物語を完結する必要があるということです。
そこに原作が存在しても、映画を見る前に原作を読むことを強制してはいけないのです。

映画を最後まで見ましたが、原作を読もうという気は起きません。なぜなら、物語として完結しており、それ以上求めるものがないからです。

この映画は、自分自身の恐怖心というのを現実的に描写しているように感じます。
そこには、原作ファンを満足させるより、映画ファンを満足させる狙いがあったのではないでしょうか。

映画はヒットしなくては意味がなく、原作ファンだけでは取り込めないと判断したのでしょう。原作ファンは映画館に何度も足を運ぶ映画ファンに比べ頻度はグンと下がるはずです。

それを踏まえて、映画を製作した宮崎吾郎氏は、親の七光りだけで監督になったとは言えないかもしれません。もしかしたら、宮崎駿氏よりいい映画を作るような気がします。