ほどよい幸福の距離というものがあるのかもしれない。
ビートルズのyesterdayではないが、昨日まで遠くにあった存在に近づきすぎると、〈憧れ〉が愁いに変わる。
妄想が生まれ、言葉に浮力がつき、自己対象化ができなくなる、極めて厄介な状態。
そうそう。もとより自分は小さな一個の生き物に過ぎないのに、生かされていることへの感謝を忘れて、〈憧れ〉に語りかけること自体が何たる無謀な行為なのか。
ようやく現実に気づき、妄想の霧が晴れてくると、再び不眠の季節がやってくる。これはすべて自分の心のありように問題があるわけで、〈憧れ〉そのものが悪いわけでは決してない。
この心の空なる部分、いわば〈欠如の感覚〉=〈自己疎外〉こそ、自分に表現を選ばせた原点ではある。
静かに朽ち果てていくことにどこまでも抗いたい気持ちと、現実を受け入れざるをえない気持ちと。
このせめぎ合いの中で疎外感は暗喩(表現)を生成させる。
やはり、〈憧れ〉は茜さす西の彼方にあるべきなのかもしれない。
けれど、困難は困難なままでよいと思う。現世を適度に諦めないで、ほどよい幸福の距離を保ちながら、人間らしく生きていくべきなのだろう。







