pen 2月15日号
利休のいう「侘び」とは、見た目の風情や味ではなく、思想や行為のありようを指している。
唐物の名物道具を持つ茶の湯の王道を行く「本数寄」に対し、名物道具を持たない粗相な茶の湯を「侘び数寄」と呼んだが、「侘び」を新しい美意識として創作したのが利休。
茶の湯の本流と底流を逆転させることで真の古典である「茶の湯そのもの」をつかみだしたのだ。
いわば、自由な崩しにあたる「草」に美の真髄を見ようとし、「草の中に真あり」を命がけで体現したクリエイターとも言えよう。
「花は野の花のように」とは、非常にいい言葉だが、花を生ける本人が「真」の中に生きていない限り、そのなんでもない一輪はついに「真」にならない。
要はたった一本の花で人を感動させることができるかどうかなのだ。
それがどれほど大変なことか。
茶の湯を解放するとともに、人々に「無私」を望んだ利休。
そこにパラドックスがあることに、大半の人々は気付いていないようだ。
茶の湯の殉教者のような利休の精神の高みと美意識を理解することは、やはり並大抵なことではないと思う。