「記念日」ではなく「記憶日」 | キッチンラーメンのブログ

キッチンラーメンのブログ

思いつくまま、つれづれに

今日、8月28日は私にとって懐かしい思い出に繋がる大切な日です。

昭和37年(1962年)の8月28日、亡き母が実家で小さな店を始めました。
もう半世紀近く前になるのですね。

当時38歳だった父がリストラされ、小学生の私と妹、そして弟の育ち盛り3人に加えてその年の1月に生まれたばかりで、まだ乳呑み子だった一番下の妹の計4人の子どもを抱えた母は、当時まだ32歳。わずかばかりの元手で店を構えました。

店を構えたといっても、最初は子ども相手のささやかな駄菓子屋でした。
わずかばかりの父の退職金も底をつき、仕入れの資金もままなりません。
店頭に並べる商品が少ないので、開店前夜、少ない品数を少しでも多く見せようと両親が苦労していたことを覚えています。

父が作った台の上に「森永ミルクキャラメル」の箱を、ちょうどドミノ倒しで倒したかのように重ねて陳列していたことを思い出します。出来るだけ隙間をなくす工夫でしたが、今思い出すと胸が痛くなってしまいます。

開店当時、周囲はほとんど田んぼでしたが、高度経済成長の時代を迎え、徐々に住宅化が進んでお客さんも増えていきました。
接する道路が小学校、中学校、高校の通学路になったことも追い風になり、パンやうどん、飲料水などの食料品に加えて、洗剤などの日用品も置くようになって、ゆっくりですが商売が軌道に乗っていきました。

開店後まもなくして父の転職先も決まり、何とか毎月の給料が入るようになりましたが、母の商売のお陰で私たち兄弟が育てられたと言っても過言ではないと思います。

夕食が、売れ残りのパンやうどんだけの日も多かったのですが、食料品を扱うことによって食べ盛りの子供たちの最低限の食料が確保できるという、母の知恵だったのでしょう。
大きな鍋一杯の具も入っていないうどんを一家6人で囲んでいたとき、「何年か先にはきっと笑い話になるよ」と自分自身に言い聞かせるように母が言ったことが今でも印象に残っています。

日々の生活に追われ、さぞかし将来が不安で心細かったことだろうと思います。
夜遅くまで内職の裁縫に精を出していた母の肩は、私や妹弟がいくら叩いても揉んでもほぐれないゴムのような硬さでした。お陰で私たち兄弟は、周囲の人から肩たたき名人と言われたほど腕を上げましたが…(笑)

開店から10年、20年、30年。販売品目も増え続けて、こちらから仕入れに行かなくても業者さんが持ち込んでくれるようになり、週刊誌や競馬新聞も置かせてくれと頼まれるようになって、自動販売機も増え続けました。初期の頃の宅配便も取扱ったように記憶しています。

しかし、私たち兄弟4人が無事成人し、昭和が終わろうかとしていた頃、長年の無理が祟ったのか母は病に倒れてしまいました。母が倒れてしばらくの間は、定年退職していた父が店を続けましたが、都市計画道路のため立退きとなり当時の(店舗兼)実家は今はもうありません。

時は流れて、一番下の妹も2人の娘の母親となり、そろそろ子育てからも解放されようかという時期を迎えて当時の記憶も曖昧になってきました。

しかし、毎年8月28日を迎えると私の脳裏には当時の記憶が鮮明に蘇ってくるのです。

乳呑児だった末っ子の妹はもちろんのこと、1歳半違いの妹や4歳下の弟は覚えていないかもしれませんが、当時小学5年生だった私には鮮烈な記憶として残っているのです。

奇しくも4年前から一昨日の8月26日が母の命日となりましたが、今日8月28日は私にとって命日とは別の「母の思い出に直結する記念すべき日」なんです。

「記念日」とはニュアンスがちょっと違うので、「森永ミルクキャラメル」の黄色い箱とともに私の頭に浮かぶ「記憶日」とでも呼ぶことにしましょうか。

母に感謝です。


              ペタしてね