■評価■

★★★★★

 

■概要■

〇本書では、通常の論理学書とは異なり、縦書きとなりますので、記号を使用しておりません。ゆえに、論理学を文章として表現しております。そうする事で、論理学を「裸に」し、「哲学」のような、その学問の根本的な本質を記しています。「入門」書ではある。けれど、同時に論理学の核心部分になります。核心部分を学ぶ事で、読者は論理学という泉の湧き出し口へと読者を誘い、その水を口にして欲しかった。という思いが込められて執筆されています。今後、追及していくかどうかはあなた次第です。そういった意味での「入門書」になります。

 

 

■概要■

●第1章「あなたは論理的ですか?」では、論理学の定義・その在り方(日本語文法の一部であり、かつ、世界共通の文法である。)を記された内容である。

●第2章「否定というのは実はとても難しい」では、否定の意味付けの中で、「排中律(AまたはAではない)」を定義付けた。それは、勇気と盲腸で例えられ、目に見えるかどうかで判別するといった内容である。

●第3章「かつとまたは」では、導入・除去した場合の文の繋がり、また、かつ(連言)とまたは(選言)をド・モルガンの法則によって変換した場合の文の繋がりを記された内容である。

●第4章「ならばの構造」では、第3章同様に記したいが、ある条件下ではないと表現する事ができない。それは、演繹的推論(前提を認めたならば、必ず結論も認めなければならない導出)下での命題論理(排中律を認めない非標準的な命題論理ではない。)である。これらの条件下で記した内容である。

●第5章「命題論理のやり方」では、これまで学んだ内容の証明を行います。学んだ内容を定義化し、活用する事で結論が正しいかを示していく内容である。また、健全(多すぎないか)、完全(不足がないか)な公理系(≒定義)を追及する事の意義も示している。

●第6章「すべてと存在するの推論」では、述語論理の元、すべて(全称)と存在する(存在)を体系化(仕組化)したものである。命題論理(≒接続詞)同様に述語論理(である。)でも3.4章同様に文の繋がりを記された内容である。

 

■印象に残ったところ■

第1章

・あたり前に使っていた「論理的」という表現だが、「論理」には定義があり、正しい意味を学ぶことができた。「論理」…ことばと言葉の関係性の一種→意味上の繋がり。「非論理」…脈絡なく発言する。

・演繹(推論)は、前提を認めたら、必ず結論も認めなければならないような導出である。「論理」という意味の繋がりを学ぶ上で重要な論理の1種である事を知った。

・演繹の正しさをチェックするやり方として、「前提を認めて結論を否定し矛盾になるかどうか調べる=背理法」は有効である事を学んだ。(後の章でその大切さを再認識する。)

・論理学は、「日本文法の一部であり、かつ、日本語文法を超えている。=世界共通文法」という表現に感銘を受けた。

・「ではない」「そして」「または」「ならば」「すべて」「存在する」、これらの言葉が作りだす演繹的推論の全体を統一的に見通す事。これが、作者が思うこの本の目標地点である事を知った。

第2章

・「否定」とは、あるはずのものがないとき「ない」と否定する。これが、否定するという事であることを学んだ。補足をすると、「ある状況で「Aではない」と正しく主張できるのは、その状況で「A」と主張すると間違いになるときである」これが否定の意味となる。

・「好きじゃない」は、否定だけではない事を知った。「好きだ」とは言えない事+「むしろ嫌いだ」が合わさったもの。つまり、「好き」の否定+「嫌い」の肯定から成り立っている。→「否定」だけを切り分ける事が大切であることを学んだ。

・「排中律」の意味を知った。「排中律」は、「Aまたは(Aではない)」から、その中間を排する(AともAじゃないともなんとも言えない)意味。つまり、どんな状況でも、主張、「A」は正しいかまちがっているかどちらかだ」

・「否定」に対する規定は、「ある状況で「Aではない」と正しく主張できるのは、その状況で、「A」と主張すると間違いになるときである。」

・【余談】(AともAじゃないともなんとも言えない)は、「A」にあいまいな概念がふくまれている時である。「勇気」「盲腸」で例えると、「盲腸」は目に見えるが、「勇気」は目に見えない(=人間がそれを観察するチャンスがない)為、あるともないとも言い切れない場面がある。これは、「実在論的立場」といい、非標準的な論理体系であることを知った。

・「二重否定取り・入れ」は「入れ」は、標準的な論理体系で示せるが、「取り」は非標準的な論理体系をはらんでいる事を学んだ。(例:勇気・盲腸)

・「矛盾」とは、「Aかつ(Aではない)」である。

・「矛盾律」とは「Aかつ(Aではない)ということはない)である。→矛盾の否定は必ず正しい。

・「背理法」とは、「間接論証」といい、ある仮定「A」から矛盾が導かれるのだとすれば、「A」は否定される。→「否定」に対する規定と同じである。

第3章

・論理的になるには、「接続表現を自覚的に使う。」が大切であることを学んだ。

・「かつ」には、入れ・取りの2種類のケースを学んだ。

・「そして」は、「かつ」という無時間的なものに、時間順序を加えたものである。つまり、「A、B、AはBに先行する→AそしてB」

・「しかし」は、「かつ」に対し更に矛盾ではないけれども、あまり、ありそうにないものを加えたものである。つまり、「A、B、AとBは両立しがたい→AしかしB」

・「または」には、入れ・取りの2種類のケースを学んだ。

・「または入れ」は、無関係ではなく、適切な関連性を入れる必要がある。(奥が深い)

・「または取り」は、「消去法」を使用する事で実現可能である事を学んだ。つまり、「AまたはB」「Aではない(消去法)」「つまり、Bである」

・【余談】「または取り」ができる方法がもう一つある。AかBの道があり、Aに進むとCに着く。Bに進むとCに着く。いずれにしてもCに着くというものである。「いずれにせよ論法」つまり、「AまたはB、AならばC、BならばC→C」

・「かつ」と「または」は、「ド・モルガンの法則」という法則により、相互関係にある。つまり、選言(または)の否定↔否定の連言(かつ)。連言(かつ)の否定↔選言(または)の否定

・ド・モルガンの法則は、背理法の仮定を用いて証明する事ができる。ポイントは、①結論から、背理法の仮定(導きたいものを否定)の箇所をピックアップ②前提と背理法の仮定から、結論(矛盾)を導く③矛盾から、仮定の否定が正しい(導きたいのが正しい)といえる。

第4章

・「ならば」の構造上、除去則は問題がないが、導入則は問題がある。なぜなら、一般的に推測により結論づけるケースが多い。したがって、導入則では、条件を書き加える事で、前提(推測)から、結論づける事ができる事が興味深かった。ただし、排中律での条件下でのみ成り立つ。

・「ならば」の否定は、「(AならばB)ではない→Aかつ(Bではない)」である。文法上の「ならば」と普段使いの「ならば」の違いにより、間違えやすい。ポイントは、①文法上で考える事。②条件が明確になっている事③条件が満たされないケースも考える事(例:半値になる事はないケース)

・「ならば」の対偶は、「AならばB」→「Bではないならば、Aではない」である。

・「ならば」の連鎖は、推移律である。「AならばB、BならばC→AならばC」

・第4章では、これまで学んだ事を活かした問題文が難しかった。なぜなら、普段使いではあっているのに、文法上では誤っているからだ。正しい答えを導く為には、文法を分解し、学んだ定義・定理に落とし込み正解へ導く事が大切である。

第5章

・第5章では、証明を行った。証明では、条件に忠実でなければならない。という事を再認識した。つまり、前提(例:「(Aではない)ではない)かつB」から「(Aではない)ではない」だけを切り出す事はできない。

・証明を行う際は、定理(対偶等)を使用する際は、定義により、定理が正しい事を証明している必要がある事を学んだ。つまり、条件(定義)が違えば、定理は成り立たなくなるからである。

・証明を行う際は、もし「A」と仮定し、矛盾を導いた結論は、他の条件下では使用する事ができない事を学んだ。

・公理系とは、過不足なく証明する事を目的としている。「健全」過剰に含まれていない事。(例:非標準的な論理体系も含めて考えていないか)「完全」不足していない事。(例:条件下が異なる定理を使用していないか)

・「ゲーテルの不完全性定理」がとても興味深かった。「ゲーテルの不完全性定理」とは、公理系の限界を示したものである。数学の世界で、「1+2=3」を例にとると、「1+2」から「3」は導けるが、「3」から「1+2」へ導く事ができない「0.5+2.5」の可能性もある。本書の標準的な論理体系では、完全である事が証明されている事が興味深かった。

第6章

・この章では、述語論理について学んだ。述語論理についても、これまで学んだ。大きくは、「すべて(全称)」「存在する」の2種類である。これら2種の導入・除去を学ぶ事で、述語(動詞)に対する論理(ことばと言葉の関係性)を学ぶ事ができた。

・いる・あるの使い分けについて学んだ。具体的には、動く生き物には「いる」、無生物には「ある」と自然に使い分けている事を知った。動く生き物に対する範囲は幅広く、大腸菌・ウィルスについても、「いる」と表現するほどである。

・「すべて(全称)」「存在する」の関係性は、「かつ」「または」と同様にド・モルガンの法則を使用できる事を学んだ。「存在の否定は↔否定の全称」

・命題論理と述語論理の関係性を学んだ。命題論理では、無限の対象については述べる事ができない。その為、述語論理「すべて(全称)」「存在する」を使用する事で、不特定多数のものを表す事ができる。

・「すべて(全称)」「存在する」の組み合わせの中で、順番が異なる事で意味が異なる事を学んだ。「全員が誰かにあげた」「誰かが全員からもらった」では、誰かが特定の一人と考えるかどうかであいまいさが生まれる。その為、述語論理を用いる事で曖昧さを排除する事ができる。

・論理学自体は、アリストテレスやストアが提唱したが、現代論理学は、フレーゲが開拓した1879年に出した「概念記法」がはじめである。フレーゲにより、アリストテレスやストアの提唱した内容が体系化され、かつ上記で学んだ、「多重量化」をも体系化した人である事に関心を持った。

・これからは、述語論理のメインとなる、「すべて(全称)」「存在する」の導入・除去を記載した。自身の知識のメモまでに

ポイントでの記載になります事ご了承願います。

・すべての除去則…At→すべてのxに対してAx:「個別の主張」を導く。例「花子→すべての人」

・すべての導入則…すべてのxに対してAX→At:無茶な選び方をせず表現する。例「すべての人間は人間から生まれた」「すべての人間はいつか死ぬ」を導入する。(証明する際には、個別の主張に直した後、導入するため、「復元則」ともいう」

・全称の導入則…At→あるxが存在しAX:無茶な選び方をせず表現する。例「ツチノコ→なにかいてそれはツチノコである」応用:ばかな男がいる→すべてのxに対して「xは男であり、かつ、xはばかである」

・存在の除去則…あるxが存在しAx、AαならばC→C(Cはαを含まない):ある存在から、特定の人を決定するのは、できない。その為、特定の者を設定する事で、その存在を特定し、除去する事ができる。これは、「いずれにせよ論法」を用いた方法である。例)前提「私のアンパンを食べた者がいる。」「アン子ちゃんがアンパン食べた。アン子ちゃんが私のアンパン食べたら、天罰下る。つまり、天罰が下る者がいる」

・これまで学んだ論理学は、一部の標準的な考えの中でしかありません。様々な観点から、体系的に導く事が試行の限界に挑む学問である事が興味深かった。