朝霧中学校 ( 諸行無常 ) | 哲人クニちゃんのブログ

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あさきゆめみしゑひもせす

今回の記事は
個人的な覚え書き
記録のようなものです m(_ _)m

先日 新聞を読んでいたら
私が中学生の時に通っていた学校の
校舎を取り壊して
跡地を造成して宅地にして
家が建つということが
書いてありました。

取り壊される前に見ておこうと
8月 20日 ( 木曜日 ) に行ってきました。 
車

明石市と神戸市にまたがる
丘陵地に明舞団地という
ニュータウンが造られ
その一角に
明石市立 朝霧中学校が造られました、

1970年 ( 昭和45年 ) に開校し
その時は私は小6で
翌年 1971年 ( 昭和46年 ) に
第2回生として入学しました

入学したときは
前年に入学して進級した
2年生はいましたが
3年生はいない
新しい学校でした。

1971年 ( 昭和46年 ) から
3年間通い
卒業してからは
訪れることもなかったですが

卒業して数年後に
朝霧中学校は
少し離れた場所にある
松が丘南小学校と
校地、校舎を交換して
入れ替わりました

元々中学校だったと知っている人も
少なくなっていると思います、

松が丘南小学校になって
ずいぶん経ってから
学校の統廃合により
1999年 ( 平成11年 ) に
廃校となったようです。

建物はそのまま残り
明石市の高齢者大学
あかねが丘学園として
使われてきました

そしてその高齢者大学としての
役割も終わり
取り壊されることになりました。

ここから画像で紹介です


********

敷地の東側にある正門から
校舎を見たところ

 


私が入学したときは
建物は
左側の校舎と
今はありませんが
プレハブの技術室だけで
渡り廊下や
右のほうに少しだけ写っている
建物はありませんでした
時間をかけて少しずつ
増築されました。

学校名を記したプレートは
取り外されています

 



正門のところは
標高42.8m
明石市内では高い場所になります
私は学校の西の方の道から通っていて
正門はあまり使いませんでした、
西にあるグラウンドの出入り口を
利用していました

 



角度を変えて校舎のようす

 




 

 

敷地の西から見たグラウンドと校舎

 



丘陵地を削って造成してあり
グラウンドと校舎の地面に高低差があり
斜面に設けられた階段を使って
行き来していました

 



グラウンドには草が生え
斜面には草木が生い茂っています

 



斜面の北側にある階段
周りは草木で覆われています

 



斜面の南側の階段
横の小さな建物は
体育用具の倉庫でした

 



校舎の屋上の
二つの小さな出っ張りは
北向きの天窓です
美術の先生が設計したものです
北向きの天窓から入る光は
絵を描くのに好都合です


 

私は中学生の時は
美術部に入っていて 
カラーパレット
部活動の一環で
岡山県 倉敷市の美観地区に
日帰りでスケッチ旅行に
行った記憶があります

敷地の南側から見た校舎
窓の向こうの教室で
真面目に?勉強しました (^_^;)


 

 

敷地の南の道沿いに
看板があります

 



建物が小学校、幼稚園であったころの
経緯が記されています

元々中学校であったことが
記されています

 



正門近くの看板

 



看板の下の方に
朝霧中学校
朝霧中学校 PTA
とあります

 



敷地の北側から
校舎を見たところ

 



斜面に木が鬱蒼と茂っていますが
私が通っていたころは
低い木がまばらにあっただけです
50年近くたって
ずいぶん大きくなりました

 



おまけ

学校の西の端から西側を眺めた街並み
丘の上のほうまで
家がぎっしりと建っています

 

 

 

 

********

長い間 雑木林の丘陵地だったところが
ニュータウンとして開発、造成され
その一角に学校が建てられ
中学校、小学校、高齢者大学と
遷り変り
今度は建物が取り壊されて
宅地になり家が建つ ・・・
その家も永遠に続くものではなく
建てかえられたり
廃屋になったり
これからも遷りかわってゆきます

世の中の一切のものは
常に変化し
生滅流転 ( しょうめつ るてん ) して
永遠に変わらないものはない
とどまるところがない
「 諸行無常 」 ですね 
真顔

 

 

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