出生は滝川一益の息子・弟・甥説


滝川義太夫益重「一益の甥・従兄弟」の息子・甥・弟説などがあり


はっきりとは確定されていない。


利久の妻は義太夫の妹とされる。


滝川家は鉄砲の名手と言われ戦場での活躍が信長の目に止まり


信長の配下となる。


後 秀吉に仕える。


死亡説


米沢説では慶長十七年(1612)六月四日


無苦庵又は太郎兵衛屋敷で七十歳で亡くなられたと伝わる。


埋葬地は、市内一華院又は善光寺とされる。


加賀説では慶長十年(1605)十一月九日


前田利長に蟄居せられ大和刈布で没したとある。


福島説では会津田畑村で亡くなられたとされています。


没年から逆算すると!!


加賀説では、天文三年(1533)生まれ


米沢説では、天文十年(1541)生まれとされる。


直江兼続は永禄三十年(1560)生まれなので


慶次郎殿は 直江殿より二十七歳以上年上・・・・・加賀説!!


米沢説では十九歳位とある。


長谷堂城の戦での慶次郎殿の年齢は


加賀説では六十七歳


米沢説では五十九歳


直江兼続は四十歳とされる。


この時代 戦で大活躍したとされる様子からみると


米沢説が説得力があり現実的とされる。


(前田慶次ゆかりの里堂森・・・・梅津幸保著)