(第三十五回)
稲妻がまた光った。暗やみのなかを突き抜ける不気味な光に徘廻っていたゴキブリががさがさと音をたてて隅に消えた。
白い裸身が少し震えて静けさの暗闇のなかで火照る吐息を殺している。
「光るでえ…」
二人で被った毛布の端から顔だけ出した矢野の声が低く濁る。
「雷、嫌いっ」
つづりは首に回した細い腕に力を入れた。矢野は気になる腰の痛みをもう一度確かめながらふぅーっと大きな息をひとつした。
「なんで雷が嫌いやねん」
矢野の手がつづりの柔らかな肩を撫でる。矢野は稲妻の走る窓をほとんど悠然とした心地で眺めていた。今にけたたましく荘厳な轟きが落ちやがて外に激しい雨音が響きわたることを知っている。
「どっかに落ちよるでえ…」
「きゃーっ、また光った」
つづりは毛布を被ったまま体を絡ませて離れない。ゴロゴロと闇の夜空が鳴る。
「そのうち降ってきよるよ。寝静まる巷に洪水の嵐や」
矢野は有頂天に浸るかのように眼を輝かした。積まれたがらくたの山に反射する稲妻の光が彼の胸中を燃え立たせるのである。
「どかーんと落ちよるでえ」
走る稲妻の青白い閃光が交じり合う肌の柔らかい温かさに生々しい妖麗を加えた。
矢野はその怪しいぬくもりを知っている。去来する多くの痴情が濁流の流木に似て渦を巻く。それは破天荒な選択を強いる自らの欲望ではなく野性的な本能に忠実な気性だと戒めるのである。脳裏を駆け巡るぬくもりは既に次への個展に賭ける構図を描いていた。個展ではなく二人展を出すのだ。激しい渦がやがて灯りとなって点滅し始めるのである。数々の流木が吸い込まれてその泡の結晶が次第に透明な色彩と共に浮かび上がってくるのである。頭上の稲妻を浴びながらこのぬくもりは恍惚として求めいく本能に同化していく。同時に耳に轟く瓦礫音が悠々と着実にそれを破壊し始める。背負ってきた黒の集大成は確実にその瞬間遠くに消え去り新しい出発点に立つ己の幻影を眺めるのである。
突然予期したとおりの大雨が狭い部屋の屋根を叩き始めた。大粒の雨音を二人は暗闇で聞いた。その轟音は毛布を被っていても耳を貫いた。まるでそれは凄まじい風圧に煽られた砂塵と容赦なく降りかかってくる槍の猛攻を感じさせた。
「あちっち」
矢野は襲ってくる熱い痛みに吟声を上げた。依然として腰の痛みが治まらない。短い叫びはやがて雨の音に向かって出る深い溜息に変わった。
「この痛みはまるで天罰を受けている感じやなあ」
「どないしたん?」
つづりは毛布のなかから尋ねた。
「この腰の痛みは昔の天罰や。中国戦線での少女のことが妙にこびりつくねん。その娘に向けた銃口のたたりやなあ」
「たたり?」
「その娘を撃ってしもたんや。上官の命令やから仕方なかった」
「なんで?」
「強姦しよったんや。奴らは告げ口を封じようとしたんやろな。やったあとわいにその娘を撃ち殺すよう命じよった」
「ひどい…」
「そうや…ひどいもんや。戦争はすべてを狂わしよったんや」
「…」
「弾はその娘の腰のあたりをぶち抜いた。今から思えばこの腰痛はその娘の怨念や」
矢野はつづりの臀部をさすった。
「天罰や、天罰や」
毛布のなかで白い裸体の声がもがく。しかしその声はやがて濁り、渦に巻き込まれていく伸吟と変わりながら果てしなく雨音の轟音に覆われてかき消されていくのである。
嵐はつづき稲妻が再び走った窓の外に矢野は拭い取れない青白い条痕を再び見つけるのだった。