(第十七回)
師走の元町商店街にまだ人混みはない。八百屋や魚屋の店先に次々と運ばれてくる野菜や海産物の活気を帯びた音だけが漂っている。薄日がアーケードの天井から洩れ、風呂敷包みを手にした矢野の白い吐息が陽炎のように流れいく。
「先生、えらい早いでんな。そんなに急いでどこへ行きはるんでっか」
「ありまっせ、ええ箱が。このダンボール持っていってんか」
八百屋の親父が張りのいい声で叫ぶ。しかし見向きもしないで通り過ぎる矢野の姿にさすがの親父も手を止め呆気にとられたように去っていく方角を眺める。
彼らの声は耳に入っていた。しかし矢野の張り詰めた心には不用な雑音だった。頭のなかは今朝決心したばかりの新しい個展の構図が支配している。それには何としても白い画布が要るのだ。七点ばかりの絵を持ち出してきたのも金に換えるためだ。これを白いキャンバスに換えなければならない。行く先はいつもの元町商店街を通り抜けて行く山の手の宗政病院である。
宗政医院はかれこれ五、六年の付き合いになる。院長の宗政信幸が路上でベトナム反戦を唱え一人デモを繰り返していた矢野を知ったのは三宮の繁華街でのことだった。書き殴られた反戦文字の画板を肩から吊し、片手に焼酎を持った矢野に惹きつけられたのだ。それだけではなかった。ふらつく足元には小さな絵が何枚も並べられ「自由にどうぞ。ただしカンパ五百円」とあったことだ。黄昏迫る雑踏で誰も見向きもしない。宗政は粗放な彼のアジ演説よりむしろ並べられた絵に心が動いた。衝動買いには違いないが宗政にとってこのとき初めて矢野の絵を三点ばかり買ったのである。