第二十七回
夏休みに入ると仁村は故郷の佐世保に佳世子さんを連れて帰り、ナナハンを乗り回して九州を一周するらしい。「赤い靴」同様、上気を蹴散らすような行動に着手しようとしているのに対し、健太郎はお告げを受けたような御土産を手に持たされたのだ。
「嫌いになったら返すから、これ頂戴ね」
と片方の赤べこを抜き取るとは、如何なる渦事であるのか。
テナーサックスの音色に合わせて熟慮するに…あなたがもし私を嫌いになったら、あなたの持っているほうを私に返してね…とも告げられた…
彼女は何たるエゴイストか。きれいに収まるはずの桐の箱がこれでは不完全この上なく、主導権を奪われたままの片身の飾り物ではないか。
うわーっ…喜んでいいのか、それともエゴイストの渦に巻き込まれて最後にはベロベロニなって「愛のコリーダ」になるのか、リロリロ、パルル♪~♬…は容赦なく健太郎の周りを旋回する。
「ジュジュの魔術・アーチ・シップ」とある。そしてジャケット全体に髑髏の画。
今かかっている作品の曲目並びに演奏者の名前をこの時初めて知ったのである。
それにしても気色の悪いリズムとテナーやなあ。
第一印象はそのように感じた。
広がる海。
燦々と輝く太陽。
焼き付く背中を疾風がひと撫で通り過ぎると、そこには次に無限の数の謳歌が飛来し、果てしなく続く眺望にどっぷりと浸かれる別天地だった。
夏、上旬。驚くほど快活に、しかもゆるぎなく、風に乗ったヨットはどんどん滑り行く。東京湾横断合宿の真っただ中に健太郎のその心と身体は委ねられていた。
「気持ちいいなあ」
「こんなに速いものとは知らなかった」
新入生は異口同音に感激にむせた。
「風の向きを読むのは難しいべや」
「半分は勘だな」
「すぐ変わるからな」
「山の天気と同じだべゃ」
笑い声が白波に打ち消されてどんどん遠ざかる。
三浦半島から出発して二時間も経つとまもなく遠くにうっすらと千葉の鋸山の稜線を確認することができる。
「頑張って一部校に昇格したいなあ」
「同じやるならな」
ディンギーの帆の音が風に煽られて小気味よく弾く。
背を波に浸しながらのけぞらした姿勢の健太郎の脳裏に快適なリズムが聞こえてくる。ポコポコ♬…走れ!走れ!最初はその調子でよかった。
しかし、ポコポコ♬…が次第に生のコンガの音に変わりよもや例の気色悪いリロリロ、パルル♪~♬が混じり始めたのだ。
何たる渦事であるか。「愛のコリーダ」はここまでついてきているのか。
「こらっ!ひだり、ひだりっ」
突然キャプテンの怒号が耳を衝いた。
「はいっ」
反射的に身を翻して反対の左側に沈めた。ほんの一瞬、風向きは変わっていたのだ。
「ジュジュの魔術」の亡霊がまさかこの場に入り込んでくるとは思わなかった。
ポコポコ♬…は「ファースト」に入って最初に飛び込んできた音だ。
初めて触れたあの軽快なテナーは本当はこのポコポコ♬…が支えていたのだ。つまり生のコンガの音だった。
それにしてもこのリズムがなぜこの場に甦ってくるのか。何となく金縛りはまだつづけられているようで…それはコンガの音がそれを象徴しているとでもいうのだろうかか。
進め、進め、呪縛がなんだ。
健太郎はそう思いつづけた。
そして、まもなくヨット部全員、今回は無事に東京湾横断を完遂し、千葉館山のヨットハーバーに到着したのである。
そして同時に健太郎の横浜における最初の夏は終わったのであった。