卒業式シーズンです。


今日は中学校の卒業式に出席してきました。


卒業式といえば思い出す、あるエッセーがあります。


20043月に書かれた塩野七生氏の『送辞』というタイトルのエッセーです。(文芸春秋にレギュラー掲載されている『日本人へ』


ウクライナであのような事が起きている今、とても考えさせられる文章です。


その中で、1990年代に防衛大学校の卒業式で氏が述べた祝辞がかいつまんで再録されています。


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「  (歴史上の武将を書いていて考えさせられることの第一は)一級のミリタリーは一級のシビリアンでもある、ということです。シビリアンであらねばならない、と言っているのではありません。一級のシビリアンでなければ、戦場でも勝てないからです。ではなぜ、一級のミリタリーは一級のシビリアンでもあるのか。

 それは、戦地でさえも良き結果につながるということが、実にさまざまな要素の結合だからです。勇敢であるだけでは充分ではない。兵士たちに人望があっても、それだけでは充分でない。では他の何に、気を配る必要があるのか。

 まず第一は、補給線の確保でしょう。勇敢な兵士といえども、腹が空いては力を発揮できない。歴史を見ていると優れた指揮官ほど、部下たちの腹具合に注意を払っていたようです。それに補給が必要なのは、食糧にかぎりません。派遣されている地での兵士一人一人の力を十全に発揮させるのに、欠くことのできないものすべてです。こうなると一級の武将は、大蔵省や厚生省の有能な官僚、ということになりませんか。

 また、戦闘に訴えないでも勝利を得ることに、彼らはなかなかに敏感でした。武力で解決することしか知らないのでは、一級の武将とはいえません。なぜなら、指揮官が心がけねばならないことの第一は、自分に与えられた兵力をいかに有効に使うか、であるはずなのですから。そうすると、どうやれば良き味方を作れるか、ということにもつながってくる。これはもはや外交です。一級の武将は一級の外交官でもなければならない、ということになります。

 そのうえ、部下たちをやる気にさせる心理上の手腕。人間は、苦労に耐えるのも犠牲を払うのも、必要となればやるのです。ただ、喜んでやりたいのです。だから、それらを喜んでやる気にさせてくれる人に、従いていくのです。これはもう、総理大臣の才能ですね。

 そして、戦場で駆使される戦略技術とて同じこと。古代の有名な戦闘は、アレクサンダーでもハンニバルでもスキピオでも、そして私もいずれは書く事になるユリウス・カエサルの行った戦闘でも、まったく一つの例外もなく、兵力では劣勢であったほうが勝ったのでした。それこそ戦略技術が優れていたからですが、なぜ彼らにだけ、優れた戦略なり戦術を考え出すことができたのか。

 それは彼等が、他の人々よりは柔軟な思考法をする人であったからです。他者が考えつくことと同じことを考えていたのでは、絶対に勝てない。疑問を常にいだき、その疑問を他者が考えつきもしなかったやり方で解決していく。それには思考や発想の柔軟性こそが不可欠で、これこそが勝敗を分ける鍵になるのです。

 このように軍事とは、まったく政治と同じに、いや他のあらゆる職務と同じに、各分野で求められる資質が総合的に発揮されてこそ良い結果につながるのです。

 世間ではよく、シビリアン・コントロールという言葉が使われますが、それは一級の武将がなかなかいないから、われわれシビリアンは危なっかしくて、コントロールしなくてはと思わざるをえないからです。

 コントロールなど必要としない、一級の武人になってください。そうすれば、アレクサンダーもハンニバルもスキピオもカエサルも考えなくてすんだ最高の難問、戦争をしないでどうやって勝者でありつづけるか、という難問の解決への道も、自ら開けてくるのではないかと期待します。

 お話ししたように、一級の武人になることはなかなか大変なことです。でも、シビリアンの世界でも、一級になることは同じように大変なことなのです。私には、ハンニバルもスキピオも、軍事力を使うことしか知らない男には書けませんでした。私が書こうとしなかったからではなく、実際の彼らの姿がそうではなかったからです。

 あなた方も、明日シビリアンの世界に放り出されても、一級のシビリアンで通用するミリタリーになってください。そしてこれが、古今東西変わらない、一級の武人になる唯一の道だと信じます」

(『日本人へ リーダー篇』塩野七生 文春新書より)


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塩野七生を、わたしは勝手に人生の師だと思っています。


今の時代に、あらためて考えさせられます。


枕崎市長 前田祝成