旧碓氷郡松井田町・霧積山女性殺人事件その16(令和3年、写真に関する追記4) | 雑感

雑感

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霧積山女性殺人事件

「その15」からの続きです。

 「忍の池前の写真」について上毛新聞は「最後の写真」と記述している件

201ページ上段、問題の5コマの写真の並び順について、

これで少なくとも、忍の池が最後の写真ではなかったことがはっきりとした。確かに当時の新聞記事をもう一度よく読んでみると、どこにも忍の池での写真が最後の一枚とは書いていない。<殺される直前>とキャプションがついているだけだ(原文ママ)

とあります。
この点について、ライター氏のいう「当時の新聞記事」=「8月20日付の上毛新聞の記事」を見てみると、確かにライター氏のいう通り「忍の池」での写真について「最後の一枚」とは書いていないのですが、

最後の写真

とは(でかでかと)書いてあります。(下の画像、赤枠の部分)

霧積山女性殺人事件

また上毛新聞は上の記事の赤線部分において、その「忍の池」での写真について、

「霧積山殺人事件捜査本部は、被害者の伊勢崎市昭和町、ガソリンスタンド店員Kさん(二四)のカメラから現像された“最後の写真”撮影者の割り出しを急いでいたが、十九日夜、Kさんに頼まれてシャッターを押したと、都内に住む人が電話で名乗り出た(原文ママ)」

として、捜査本部がこの「忍の池前の写真」を「最後の写真」としてその撮影者の割り出しを急いでいたと明記しているわけです。(上の画像、赤線の部分)

つまり明らかに上毛新聞はその記事中で「忍の池前の写真」について「最後の写真」と記述しているわけですが、ライター氏はレポートの中でこの事実に言及をされず、
なおかつ、石田某がカメラのシャッターを押した回数を「二回」から「一回だけ」と、わざわざ「だけ」まで付けて変更をされている、響きの良くない言葉で言えば「改変」をされていると。

この事実の裏に一体どういう意図があったのか、
その点を勘ぐってみると、これは的外れかもしれず言葉にするのは心苦しくはあるのですが、もしかするとなんらかの意図をもって特定の方向に---つまり「心霊写真」を最後(5コマ目)にはめ込んでピースを完成させるべく、どうにかして5コマ目を空席にしておく方向に---誘導しようとされたのだろうか?・・・などと思えなくもなかったと。

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 「心霊写真」を見たという女性は、それを「最後の一枚」とは証言していない件

同じく201ページ上段、ライター氏が

「上毛新聞は忍の池での写真について『最後の一枚』であるとは書いておらず、<殺される直前>とキャプションを付けているだけだ」

とされ、「『最後の一枚』とは書いてないのだから・・・」という論理によって「忍の池前の写真」を5コマ目の候補から除外されたことについてなのですが、
その論理に従うのであれば、例の「心霊写真」についても5コマ目の候補からは除外するべき、ということになるのではないかと。

というのは、その「心霊写真」を見たという女性の証言は

警察からKちゃんの持ち物が全部戻されたときに、あたしも見せてもらったんです。その中にあの娘が最後に写っているという写真があったんです。それが気味悪いのよ。笹やぶの中にボォーッと立ってるんだけど。脚の途中から白い煙だか雲みたいなものが出ていて、下のほうが切れてるの。それに表情も生気がなくて、まるで抜け殻みたいだった(205ページ上段、原文ママ)

というものであり、この中で女性はその写真について「最後の一枚」であるとは言っていません。女性は

あの娘が最後に写っているという写真(原文ママ)

と言っています。
しかもこの女性の言葉はクセのある表現で、実は幅広く解釈できるのではないかと。例えば、

「あの娘が(霧積に旅立つ前の)最後(たとえば72年7月とか)に写っているという写真」
「あの娘が最後(亡くなる1~3日ほど前)に写っているという写真」
「あの娘が(中学時代の)最後に写っているという写真」
「あの娘が(高校時代の)最後に写っているという写真」
「あの娘が最後(の家族旅行の際)に写っているという写真」
「あの娘が最後(の友達との旅行の際)に写っているという写真」
「あの娘が(夏休みの)最後に写っているという写真」
「あの娘が(アルバムの)最後(のページ)に写っているという写真」

などとして、( )内が意図的に省かれていたのではと疑うこともできなくはなく、要するに「最後」とは「何の最後か?」という部分が曖昧にされている、注意を要する表現かと。

そこまで言わずとも、当時自分としては、「忍の池前の写真」について上毛新聞が「最後の写真」と記述していることへの言及を避けつつ、

「『忍の池前の写真』については、新聞は『最後の一枚』とは書いてないから、5コマ目ではない」

と退けられたライター氏がなぜ、「最後の一枚」と証言されたわけでもない「心霊写真」を

正真正銘、最後の一枚(原文ママ、205ページ下段)

と結論付けられたのか、そこに唐突感を覚えたというか、この性急な結論への持って行き方は見ようによっては、「気味の悪い心霊写真を見た」という女性の証言(セリフ)を紹介する中で「最後の一枚」という表現を使うことを巧みに避けながら、なおかつ、

「その心霊写真こそが最後の一枚である」

と読者を錯誤させる叙述トリックであるように見えなくもなく、仮にその読みが正しければ(失礼なことを言っているかもしれません、申し訳ありません)、その裏には、

「読者の想像を掻き立てるような謎めいた結末にするべく、気味の悪い心霊写真を最後にはめ込んで5コマのピースを完成させよう」

という、本を執筆・編集・出版される側の意図があったのではないか・・・などとも思ってしまうわけです。

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 「心霊写真」を見たという女性はそれを「あの娘が最後に写っている写真」と表現したが、金湯館のご主人も「金洞の滝前の写真」について警察から「被害者が最後に写っていた写真」と説明を受けている件

同じく205ページ上段、先述の内容とやや被る話なのですが、件の「心霊写真」について、それを見たという女性は例えば

「その気味の悪い写真が、亡くなる直前に霧積で撮った5コマのうちの最後のコマ(5コマ目)だったそうだ。警察が遺族に返却する際にそう言ったらしい」
「その気味の悪い写真が、亡くなる直前に霧積で撮った最後の一枚だったそうだ。警察が遺族に返却する際にそう言ったらしい」

などと「正真正銘、まぎれもない最後の一枚(5コマ目)だった」という表現では言っておらず、単に

あの娘が最後に写っているという写真(原文ママ)

と言っているわけです。

そして先述の通り、実は「金洞の滝前の写真」についても、それを警察から見せられたという金湯館のご主人の話によれば、警察は

被害者が最後に写っていた写真(原文ママ)

と説明して、ご主人に撮影場所の確認を求めてきたと証言しています(200ページ上段)。つまり、

「心霊写真(撮影場所不明)」 → 「あの娘が最後に写っているという写真(205ページ上段、原文ママ)
「金洞の滝前の写真」 → 「被害者が最後に写っていた写真(200ページ上段、原文ママ)

ということで、実は2枚とも、それを見たという証言者たちは同じ表現をしていると。

ところがライター氏は、「心霊写真」については(撮影場所や、場合によっては撮影時期さえ不明であるにもかかわらず)なぜか直ちに

「正真正銘、最後の一枚(5コマ目)」

と結論付けられたのですが(205ページ下段)、「金洞の滝前の写真」については当然のように5コマ目の候補から除外され、なぜそうされたかの理由についてもレポート中に述べられてはいません。これも疑問を覚えた点の一つでした。

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 そもそも被害者遺族が警察から戻された「殺害される直前の写真」などを他人に見せるものだろうか?という素朴な疑問について

205ページ上段、「心霊写真」を見たという女性の証言、

警察からKちゃんの持ち物が全部戻されたときに、あたしも見せてもらったんです。その中にあの娘が最後に写っているという写真があったんです。それが気味悪いのよ。笹やぶの中にボォーッと立ってるんだけど。脚の途中から白い煙だか雲みたいなものが出ていて、下のほうが切れてるの。それに表情も生気がなくて、まるで抜け殻みたいだった(原文ママ)

とあるわけですが、このくだりについて率直に思うこととして、そもそも被害者遺族が・・・しかも殺人(言いにくいですが惨殺)という形であまりにも痛ましい亡くなり方をした被害者の遺族が、警察から戻された写真などを---しかももし本当にそれが殺害直前に撮られた一枚だったのであれば---たとえ2軒隣の親しい間柄だとはいえ他人に見せたりするものだろうか?という気がしなくもないのかなと。

ただこれについては、「そんなものを他人に見せるだろうか?」というのは自分の感覚であり、他人の感覚は違うのかもしれませんが・・・。

 4月23日追記: あと、上の引用部分の「警察からKちゃんの持ち物が全部戻されたときに、あたしも見せてもらったんです。その中にあの娘が最後に写っているという写真があったんです(原文ママ)」という部分について。
レポートではこの部分の直後に「警察が遺族に返却する際に漏らした情報ならウソはないはずだ(205ページ下段、原文ママ)」として、「あの娘が最後に写っているという写真」うんぬんは「警察が遺族に返却する際に漏らした情報」であるとしています。
ここに疑問があるわけです。
どういうことかというと、Kさんの遺留品は「ネガフィルム」であって「写真」ではありません
とすると、警察がKさんの遺族に返却するのは「写真」ではなく「ネガフィルム」であるはずなのですが、上の証言には「その中に・・・写真があったんです」とあります。
警察は確かに捜査のためには当然にその5コマのネガを現像(写真化)したでしょうが(「忍の池前の写真」がそうでした)、
しかしライター氏の言うところに従えば、警察は遺留品返却の際に、わざわざ捜査のために現像した写真(あるいは焼き増した写真)まで遺族に渡し、しかもその際に、
これがKさんが写っていた最後の写真で・・・
などと説明をしたということになるかと思うのですが・・・本当なのでしょうか?
あるいは、「写真」を返却したのではなく「ネガフィルム」を返却したのでしょうか? というか当然そうであろう(返却したのはネガフィルムであろう)と私は思うのですが、
しかしそうなると、警察は遺留品一式を遺族に返却する際に、わざわざネガフィルムを取り出し、遺族に対してそれを示しながら
これをよく見てください、このネガの5コマ目がKさんが最後に写っているもので・・・
などと説明し、それをのちに遺族が現像し、その現像された写真を知人女性が目にし、後年のライター氏の取材に対して証言した・・・という流れになると思うのですが、
警察が遺族に遺留品を返却するときに「ネガフィルムの内容説明」などといった細かな説明をするものなのでしょうか?
(違和感を覚える部分につき、追記させていただきました。)

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 上毛新聞はいわゆる「最後の5コマ」について、「Kさんが帰路途中でだれかに撮影を頼んだとみられるものなど五コマ」と書いており、「5コマすべてが誰かに撮影を頼んだものだった」とは必ずしも読めない件

205ページ下段、ライター氏が「最後の5コマ」の全容が判明したとして、その内訳を列挙されるくだり、

マスコミへの情報ならあてにならないが、警察が遺族に返却する際に漏らした情報ならウソはないはずだ。Kさんを撮った五コマのうち、最初の二コマは水車前、三コマ目は忍の池、そして四コマ目が金洞の滝前。そして<正真正銘>、最後の一枚がこの笹やぶの中(の一枚)だった。これで新聞が報じた最後の五コマの写真はすべて明らかになった(原文ママ)

とあります。
しかしこの「Kさんを撮った五コマ」という、あたかも「最後の5コマ」=「すべてKさん自身が被写体になったもの」であることを前提とするかのような表現自体が、実はそもそも上毛新聞の記事とは矛盾しているのでは?と思うことがあります。

どういうことかといいますと、上毛新聞自体はいわゆる「最後の5コマ」について、8月19日付で「ナゾ秘めた五コマ」として見出しを掲げた上で、

「捜査本部では現場の造林小屋に残されていたKさん(被害女性)の所持品を再点検、このうちカメラは、Kさんが帰路途中でだれかに撮影を頼んだとみられるものなど五コマをとらえていた(原文ママ)」

としています。(下の画像、赤線の部分)

霧積山女性殺人事件

細かいことをいうようであれですが、上毛新聞としては、

「だれかに撮影を頼んだとみられる五コマをとらえていた」
「だれかに撮影を頼んだとみられるシーンが五コマとらえられていた」
「だれかに撮影を頼んだとみられるシーンのみで五コマがとらえられていた」
「だれかに撮影を頼んだ五コマがとらえられていた」

「だれかに撮影を頼んだ五コマのシーンがとらえられていた」

等々とは書いておらず、あくまで、

だれかに撮影を頼んだとみられるものなど五コマをとらえていた(原文ママ)」

と書いているわけです。

要するにこの上毛新聞の記事の表現(「など五コマ」)からすれば、いわゆる「最後の5コマ」は必ずしも「Kさん(被害女性)が誰かに撮影を依頼して自分自身が被写体となったものばかりで構成されていた」とは限らず、
むしろ普通に読めば、Kさんが被写体になっていない、彼女自身がシャッターを押したと推定されるもの(例えば風景写真など)もその5コマの中には混ざっていた可能性が示唆されているのではないかと思われ(正直、下手すると複数枚が風景写真だった可能性もあるのではと自分は考えているのですが)、仮にそうだとすると、

「Kさんが被写体となったものばかりで5コマが揃った」

とするライター氏の結論は、5コマについて言及した上毛新聞の表現(「だれかに撮影を頼んだとみられるものなど五コマ」という表現)とはそもそも矛盾するのでは?・・・という見方もできるのではないかと。

また、ここも気になる点につき指摘させていただきますが、上にも述べたようにライター氏は、

「マスコミへの情報ならあてにならないが、警察が遺族に返却する際に漏らした情報ならウソはないはずだ。Kさんを撮った五コマのうち、最初の二コマは水車前、三コマ目は忍の池、そして四コマ目が金洞の滝前。そして<正真正銘>、最後の一枚がこの笹やぶの中(の一枚)だった。これで新聞が報じた最後の五コマの写真はすべて明らかになった(原文ママ)」。

とされているわけです。そしてその一方で、レポートの他の箇所では「元捜査官にも取材した」とも書かれているわけです(203、204ページ)。

ここで疑問になってくるのは、「元捜査官」にも取材をされたのであれば、被害者の知人女性が見たというその笹やぶ前の「心霊写真」が本当に存在したのか、そしてそれが本当に霧積での「最後の一枚(5コマ目)」だったのか、そこに「ウソはない」かどうかを、その「元捜査官」に確認すればよかったのでは?・・・ということなのですが---2003年の取材時点で時効成立から約16年が経過しており「心霊写真が5コマ目だったかどうか」などは秘匿し続けるには当たらない情報と思われ、質問すれば教えてもらえたのではないかと思うのですが---その点について「元捜査官」に確認してみたという話は、レポートには一切描かれてはいないわけです。

つまりライター氏は、「金洞の滝前の写真」については、その写真の存在を金湯館のご主人から聞かされた後に、事件当時金湯館でバイトをしていた男性に取材してその写真の存在を確認したと書かれているのですが(201ページ上段)、
「心霊写真」についてはその存在を聞かされた後で、金湯館のご主人に対しても、バイト男性に対しても、そして事件の詳細を知るはずの「元捜査官」に対しても、その写真の存在を確認するということをされてはいないと。

そして、第三者にその存在の確認を取らなかった「心霊写真」=「あの娘が最後に写っているという写真(原文ママ)」については「ウソはないはず」として「最後の一枚(5コマ目)」であると結論付けられ(205ページ下段)、
その一方で、警察が金湯館のご主人に対して全く同じ表現で・・・つまり「被害者が最後に写っていた写真(原文ママ)」と説明し、ライター氏によるのちの取材でバイト男性にもその存在を確認したという「金洞の滝前の写真」については、なぜかあっさり「最後の一枚(5コマ目)」の候補からは除外されていると。このあたりにも疑問を覚えたわけです。

(その17へ続く)