The Number Of The Beast(666・黙示録の獣の謎)・その2 | 雑感

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ヨハネの黙示録

(黙示録の四騎士)

 

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地震が頻発し火山が爆発し伝染病が流行り人心は乱れ戦(いくさ)の足音が聞こえ、海の向こうでは暴動が多発しイナゴの群れが農作物を食い荒らしている、そんな時節柄、思わずヨハネの黙示録を就寝前の10分ほど読み返してみている方々も多いのではないかと。

 

怪文書といえば、これもまたある意味極めつけの怪文書ではないでしょうか。意味不明な言葉を羅列しながら、意味ありげな顔とわけのわからない迫力で何世紀もの間、新約聖書の最後の部分に正典として居座り続けてきたのでした。

 

この書、殊に13章に出てくる獣の数字(666)についての考察を書いてみたいと思い、見切り発車したのですが、いざ着手してみるとなかなかうまくまとまらず、途中で投げ出そうかと・・・。

 

一つ思うのはこの書は三重構造であり、三つの視点からの記述が描かれている(三重の意味に読める?)のではないかと、

そして最後の2章(21~22章)で描かれている「新天新地」であるとか「天から下ってきた新しいエルサレム」であるとかは、どう見ても「覚醒した人間の意識(いわゆる大我というのか超意識といったようなものに融合した状態)」のことではないかということでした。

 

その結論が仮に的を射ているとすれば、それ以前の章(1~20章)の内容も、結論から逆算して意味を読み解くべきではないか、

それに加えて、この書を読み色々調べたうえでの個人的な思いとして、この書は口から出まかせが書かれたものではないだろうという思いがありますので、そういったことを前提とすれば、この書は筆者ヨハネにとっての

 

1. 近未来の世界の出来事(予言・近景)
2. 遠い未来の世界の出来事(予言・遠景)
3. 超意識への覚醒とそこに至るまでの自己の内的闘争(奥義・最遠景)

 

この三つの視点からの記述を絡み合わせるように描かれたものではないか、などと思うわけです。

 

1の視点に立てば、「666」が意味するものは、ヘブル語でゲマトリアを取った時のローマ皇帝ネロであろうという多数説で間違いないのではと。

 

2の視点から見れば、一部の未来主義の方々が予想している通り、「666」は今後現れるであろう独裁者を指しており(ネロの再来であるとか、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスの再来であるとか言われており、恐らくこの人物のヘブル語のゲマトリアも666になると思われる)、

 

3の視点から見た「666」は人間の内なる獣性とか我欲の象徴であり、これは人間の諸々の徳性(666にとっての抵抗勢力)を根絶やしにして五感と心への支配を確立し、人間の霊的覚醒への道を阻む内なる独裁者に例えられものであろうと。(この「独裁者」に打ち勝った者、すなわち、五感と心を制御し、人の悪を言わず、人を許し愛し、究極的にはそれらの理想のために命も惜しまないという境地に至った者のみが、21~22章で描かれた「神とともにある新天新地」「福音書でイエスが語った神の国」に入ることができる)

 

ヨハネの黙示録

(1の視点から見れば、これがまず妥当なところではないかと)

 

ヨハネは幻(深い瞑想による変性意識体験?)の中で、見て聞いたとおりに黙示録を書いたのだろうと想像します。それで、啓示を受けたヨハネ本人は、1世紀のローマ帝国時代の人だけに、先の1については理解していただろうと思われるのですが、2についても理解していたかは少々怪しく、いわんや3について理解していたかはかなり疑わしいのではないかと。

 

ちなみに、3の視点からの黙示録の解釈は、エドガー・ケイシーのそれがかなり良いのではないかと思います。

 

ケイシーは仏教というのかヒンドゥー教というのか、とにかく輪廻転生や呼吸法のことなども交えながら、東洋的なものを感じさせる手法で黙示録を紐解いており(眠りながら語ったといわれている)、

その解釈は難解ではあるものの、ところどころに、文字通り「目も覚めるような」、わたし的には凄味さえ覚える解釈がちりばめられています。

(以下のURLが、PDFですがケイシーの黙示録解釈を---全てではないでしょうが---まとめた書です。訳書も出ており、私自身はけっこう前に手に入れたのでどうかなと思ったのですが、今調べてみると、なんとまだ新刊で買えるようです。)

 

https://www.edgarcayce.org/uploadedFiles/member_section/Circulating_files/Circulating_Files_PDFs/Non-Medical_Circulating_Files/21876_BookofRevelation_Commentary.pdf#search=%27The+Book+of+the+Revelation%3A+A+Commentary+Based+on+a+Study+of+TwentyThree+Psychic+Discourses+by+Edgar+Cayce%27

 

こちらのサイトはかなり簡潔にまとまっています。

 

https://www.near-death.com/paranormal/edgar-cayce/book-of-revelation.html

 

ケイシーは地球の地殻変動に関する予言を外したりもしているのですが、この人物の黙示録の解釈を見る限りただのペテン師とは思われず、

外れた外れたと揶揄されているあの地殻変動の予言なんかも、事情で時期がずれただけで、そう遠からぬ将来に実現するかもしれんな、などと思えてきます。

 

ちなみに黙示録4章~5章の一部を、用語やセンテンスについてのこの人の解き明かしをベースとしつつ、自分なりの理解で文章にしてみると、次のようになりました。掲載させていただきます。(青字のところが当方による翻訳。体験したこともない世界のことを書いているので、言葉の定義も理解も甘々になってしまっていることはご容赦ください。)

 

 ヨハネの黙示録 4章

 

1 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」

 

翻訳: その後、私は見た。見よ、超意識への覚醒の門が開いていた。また先に聞いた声が再び私に呼びかけ、「ここに上れ。この後、あなたが内的闘争を経験する過程で、あなたの霊とか精神とか肉体に必ず起きてくる変化と結末をあなたに示そう」と言った。

 

2 たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、
3 その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。

 

翻訳: たちまち私は霊感モードに突入した。すると見よ、脳の中に一つの御座があり、そこに着座する超意識その方がおられた。その方は碧玉や赤めのうのように見えたが、これは正しい審判や、正義、慈悲、癒しなど超意識の属性の象徴であり、またその方の御座の回りにはエメラルドのように見える虹があったが、これも先述した超意識の諸属性が融合して放つオーラを表したものであった。
 
4 また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。
5 御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。

 

翻訳: また脳の中の超意識の御座の回りにはそれよりも小さな二十四の座があったが、これらは五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)と結びついた二十四の頭蓋神経を象徴しており、その二十四の座に着座した二十四の長老たちの衣が「白かった」というのは彼らが五感の刺激への執着を離れ清浄であることの象徴であり、また彼らが「金の冠を戴いていた」というのはそれらが五感の主として正しく制御していることの象徴であり、つまりはここに描かれている二十四の長老のあり様というのは、世間の(つまりブログ主のような)凡人が制御するというよりはむしろ振り回されてばかりいるあのやっかいな五感とそれに結びついた二十四の頭蓋神経のすべてが、この超意識の前においては完全に統御されいるということを象徴していた。超意識による統御のもと、人体内にある七つの霊的センター(ヨーガでいうチャクラのようなもの?)のすべてが覚醒していた。

 

6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
7 第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。
8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」
9 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、

 

翻訳: 超意識の御座の前は「水晶に似たガラスの海」のようであったが、ここでまず「海」とは人の感情の象徴であり、それは様々な想念が混ざり込み時に凪ぎ時に荒れ狂う不安定なものであるが、なんとここでは御座の前に横たわるその「海(感情)」が「水晶に似たガラスの海」だというのであった。これは超意識に融合した人間の感情が常に波打つ気まぐれで不安定で不純物が多く透明度の低い自然の海(普通人の感情)のようなものではなく、水晶やガラスのように透明かつ波立たず内外の刺激に対して不動であることの象徴であった(Stilled emotions)。超意識の前にはさらに旧約『エゼキエル書』でもおなじみの獅子・雄牛・人間・鷲のような四つの生き物がいたが、これらは人の体内の七つの霊的センター(この七つが閉じられている状態の人体を黙示録第5章では「七つの封印で閉じられた巻き物」に例えている)のうち原始的な欲求をつかさどる低位の四つを象徴しており、それぞれに対応する肉体の部位とつかさどる欲求を表すと、

 

● 「獅子のような生き物」 = 「胸腺、つかさどる欲求は『自己満足、欲求を満たし自分自身に喜びを与えること(Self-gratification)』」

● 「雄牛のような生き物」 = 「副腎、つかさどる欲求は『自己保存(Self-preservation)』」
● 「人間のような顔の生き物」 = 「ライデン腺、つかさどる欲求は『生命存在の維持(Sustenance)』」
● 「鷲のような生き物」 = 「生殖腺、つかさどる欲求は『種の増殖繁栄(Propagation of the species)』」

 

であり、「その生き物たちの回りも内側も目で満ちていた」とされているようにそれぞれが完全に自己に目覚めていた(閉じた状態ではなく、封印が解かれ、覚醒した状態にあった)が、それが「昼夜絶え間なく超意識への賛美を叫び続けた」とある通り、閉じられた状態であれば四つの原始的欲求(しかも歪曲されたそれ)の温床となるこれら四つの低位の中枢も、ここにおいては覚醒し超意識との完全な調和を保っており、この時、

 

10 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

 

翻訳: 五感と結びついている二十四の頭蓋神経(二十四人の長老)は、普通人の体内でなら自分たちが有している五感への支配権(冠)を超意識に対して完全に譲り渡し(冠を御座の前に投げ出し)、超意識を賛美した。これは肉体の支配が超意識に明け渡されていることの象徴であり、人間の創造の完成であり、以降の章で描かれた人間の内的闘争---おどろおどろしい破局的衝撃として描かれる---を通じてヨハネが最終的に到達すべき境地であった。(それゆえ4章の冒頭において「この後、必ず起こる事をあなたに示そう」と宣言されている。)

 

 ヨハネの黙示録 5章

 

1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。

 

翻訳: また私は超意識の右の手に巻き物があるのを見た。ここでいう「右の手」とは霊的力の支配の象徴的部位であり、そこに握られていた「巻き物」とは「人体」のことであり、その「内側にも外側にも文字が書きしるされ」ていたとは潜在意識(内側)にも顕在意識(外側)にも言葉が詰まっていたということであった。また、その巻き物(人体)が「七つの封印で封じられていた」とは、人間が超意識への覚醒に至るためには体内の七つの霊的中枢(内分泌中枢)を解放する必要があるが、その七つの中枢は普通人においては閉じた(封印された)状態にあり、そこを開いていくにはヨハネの師匠であるナザレのイエスがされたように、明確にそこを意識しながら諸欲(魔)との内的闘争に打ち勝ち---福音書によればイエスは「この世の王にならないか?」という悪魔の誘惑も経験された。またイエスが十字架の受難に赴く直前に発した勝利宣言は「私はすでにこの世に勝った」というものであった(ヨハネ福音書16章33節)---自己の感情を「水晶に似たガラスの海」のように透明で波打たぬものとし、欲望というのか執着というのかとにかくそういったものを十字架上に捧げ切り、もって五感に結び付いた二十四人の長老を平伏させ、あの獅子・雄牛・人間・鷲のような生き物に象徴される四つの原始的欲求をも制御下に置く必要があるが、それはこの世の欲の実現にのみ意欲を燃やしがちな私(ブログ筆者)のような凡夫には到底無理な話ではあった。

 

2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。
3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」(以下略)

 

翻訳: またヨハネは、幻の中でひとりの強い御使いが大声でふれ広めて、「人体(ここではおそらくヨハネその人の体)の七つの霊的中枢を開くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとり人体の七つの封印を解くにふさわしい者はいなかった。ヨハネが「開いてくれる人が誰もいないのか」とショックで激しく泣いていると、長老の一人が歩み寄り、「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根、つまりあなたの師匠のナザレのイエスが、諸欲というのか執着というのか、とにかくそういったものに打ち勝ち超意識へと覚醒するための難関試験に合格した(身をもって苦しみを味わい超意識覚醒への道筋をつけた)ので、その導きにより、人体(おそらくヨハネその人の体)の七つの霊的中枢を開き(封印を解き)、覚醒への過程で起きてくる現象を見ることができます」 と言った。


(そして続く6章以降で、イエス・キリストの象徴である子羊が、七つの封印を、一つまた一つと解いていく。)


とにかく1章から22章(最終章)まで、一事が万事この調子であり、こうした視点から黙示録を眺めてみると、

この書が意味のない妄想の産物ではないかとか、

成立年代がAD60年代であるとか90年代であるとか、

使徒ヨハネの手によるものではないのではないかとか、

そこに描かれた未来の予言は事後予言ではないかとか、

意味不明で支離滅裂につき後世の不埒の輩がかなりの部分を書き加えているのではないかとか、

666が皇帝ネロであるとかバーコードであるとかコンピューターであるとかないとかいった、

人々が長年にわたってこねくり回してきた問題とは、全く違うレベルの黙示録の様相が立ち現れてくるのではないでしょうか。

 

そして、仮にもしそれが「奥義の開示」といってよいものであるとすれば、西洋(パトモス島)発の預言書(であり予言書)であるヨハネの黙示録が、その発祥地あたりの伝統的な思考では理解されず、アメリカ人でありながら東洋的なアプローチでこの書に対したケイシーによって解き明かされてしまったということであり、ここでも福音書のイエスの言葉、

 

「預言者は自分の故郷では受け入れられないものだ」

 

という言葉の真実性が証明されてしまったということになるのかなと。

 

いちおう「その3」で、黙示録の最後の2章を掲載させていただきます。

そこにはよくわからないパラダイスのような世界が描かれているのですが、それは、内的苦闘の末に人体の七つの封印が解かれ、超意識に覚醒した、心身ともに刷新された人間の状態(神とともにある新天新地 = 旧約『創世記』でアダムが一度は失ったパラダイスを回復した状態)を描いているものとみれば、意味が通るのではないかと。