
(のぼりべつクマ牧場の神7。「なまら めんこい べあーず」なら「NMB」じゃないのか、なんで「NKB」なんだろ?と思ってよく考えてみたら、「Noboribetsu Kuma Bokujou」の「NKB」だった。熊目線で見るとけっこういい女がいる。この中では一番ブスの7位のマリンちゃんがポーズも可愛く目を惹いた。)
※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います。※※
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引き続き、ウィキペディアからのコピペ(赤茶色の文字)と、木村盛武氏のレポートその他の資料を参考にしつつ若干の補足を加える(白字の部分や画像)ということで進めてみます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%9B%E5%88%A5%E7%BE%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6
三毛別羆事件ウィキペディア
■ 12月14日
● 最期
空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。(11月30日に池田富蔵家の軒下のトウモロコシを荒らした際にも被弾していたので、半月で2度の被弾だった。)
銃弾を受けていれば動きが鈍るはずと、急いで討伐隊を差し向ける決定が下された。

一行の他に、10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った山本兵吉(やまもと へいきち、当時57歳。小説『羆嵐』では山岡銀四郎)という熊撃ちがいた。
鬼鹿村温根(現在の留萌郡小平町鬼鹿田代)に住む兵吉は、若いころに鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、軍帽と日露戦争の戦利品であるロシア製ライフルを手に数多くの獲物を仕留めた、天塩国でも評判が高いマタギだった。
彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、誰もが悔しがった。孫によれば、(兵吉は)時に飲むと荒くなることもあるが、いたって面倒見もよく、優しい面を持ち合わせていたという。
兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。ヒグマは頂上付近でミズナラの木につかまり体を休めていた。その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在にはまったく気づいていない。音を立てぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの死骸だった。
● 熊風
ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2.7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えた大物であった。推定7 - 8歳と見られ、頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。これほど特徴のある熊を誰も見たことがないという。
隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者などさまざまだった。やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。終わってみると12日からの3日間で投入された討伐隊員はのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇であった。
ヒグマの死骸は人々が引きずって農道まで下ろされ、馬ぞりに積まれた。しかし馬が暴れて言うことを聞かず---辻橋蔵家の名馬・男山号に引かせようとしたものの、男山号も巨大なクマの死骸を前に尻込みして暴れるばかりだったという---仕方なく大人数でそりを引き始めた。すると、にわかに空が曇り雪が降り始めた。事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わり、そりを引く一行を激しく打った。言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるという。この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。
● 解剖
猛吹雪に、5kmの下り道を1時間半かけてヒグマの死骸は三毛別青年会館に運ばれた。
雨竜郡から来たアイヌの夫婦は、「このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ」と語り、証拠に(実弾と)腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。あるマタギは、「旭川でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる」と言った。山本兵吉は、「このヒグマが天塩で飯場の女を食い殺し、三人のマタギ(アイヌ)に追われていた奴に違いない」と述べた。
解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が、絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみをあらわにした。(加えて木村盛武氏によると、「右後肢からは、かなり古い実弾が摘出された」。かなり以前にも銃撃を受け、手負いになっていたと思われる。またクマの胃から出た遺物は全てアルコール漬けにされ保存されることになったというが、木村氏の取材によっても、その真偽と行方は分からなかったという。)
犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、味はよくなかったという。
皮は板貼りされて乾燥させるため長い間さらされた。(皮の長さは3.6m、幅は2.7mだった。)
その後、肝などとともに50円で売却され、この金は討伐隊から被害者に贈られた。毛皮や頭蓋骨は消息不明である。
● その後
頭部に傷を負いながらも気丈な姿を見せたヤヨは順調に回復したが、背負われたまま噛みつかれた明景梅吉は、後遺症に苦しみつつ2年8か月後に死亡した。この少年を含め事件の死者を8人とすることもある。
同じ家でヒグマの襲撃から生還した明景勇次郎は、事件の27年後に太平洋戦争で戦死した。
長松要吉も回復し翌春には仕事に戻ったが、川に転落して死亡した。ヒグマに受けた傷が影響したのかは定かではない。(『慟哭の谷』によると、オドは意外に早く回復し冬山で働けるようになったが、事件の翌年4月、伐採現場からの帰途、仲間の制止も聞かずに近道しようと六線沢の明景家裏の丸木橋を渡り、足を滑らせ濁流にのまれて死亡したという。)
事態は解決しても、村人に心理的恐怖を残した。
村外を頼れる者は早々に六線沢を去ったが、多くはそのようなつてを持っていなかった。壊された家屋を修理し、荒らされた夜具や衣類の代わりに火にあたりながら、なんとか越冬した。しかし春になっても村人は気力を取り戻せず、家族を亡くした太田三郎は家を焼き払って羽幌へ去り、その後生まれ育った青森に移ったが早くして死去したという。
六線沢は、ひとりまたひとりと村を去り、下流の辻家を除いて最終的に集落は無人の地に帰した。
ヒグマを仕留めた山本兵吉はその後もマタギとして山野を駆け回り、1950年に92歳で亡くなった。彼の孫によると、生涯で倒したヒグマは300頭を超えるという。
区長の大川与三吉の息子・大川春義(おおかわ はるよし、当時7歳)は、その後名うてのヒグマ撃ちとなった。これは、犠牲者ひとりにつき10頭のヒグマを仕留めるという誓いによるもので、62年をかけ102頭を数えたところで引退し、亡くなった村人を鎮魂する「熊害慰霊碑」を三渓(旧三毛別)の三渓神社に建立した。
また春義の息子・高義も同じく猟師となり、1980年には、父・春義も追跡していた体重500kgという大ヒグマ「北海太郎」を8年がかりの追跡の末に仕留めている。さらにその5年後には、他のハンターと2人で、体重350kgの熊「渓谷の次郎」も仕留めている。
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続いて、木村盛武氏によるレポートなどを参考にしつつ、補足的なものを。
● ヒグマの射殺地点について
木村盛武氏は『慟哭の谷』の中で、ヒグマの射殺地点について、
「熊は(氷橋のたもとでの)被弾地点から山裾沿いに2キロメートルほど歩き、“辻の沢”付近から方向を転じ、尾根沿いに国有林を駆け上がっている。山裾からおよそ150メートルほどの小高い峰の方向に足跡は向かっていた」
と記し、その位置を、下の地図上の×印の位置で示している。(画像「甲」とします。赤色部分は当方による補足)
×印のあたりの航空写真を見てみると、(画像「乙」とします)
甲と乙を重ねてみると、(画像「丙」とします)
ただ、この×の位置は木村氏の言う「辻の沢付近から方向を転じ、尾根沿いに国有林を駆け上がっている」位置と見ることはできるものの、「山裾からおよそ150メートルほど」かというとそうでもなく、山裾からは直線で260m程度は離れている。
『慟哭の谷』では、ヒグマが射殺される直前に身を支えていたミズナラの大木の写真まで---その詳細な位置は記されていないが---掲載されているので、木村氏が射殺地点をご存じだったのは間違いないと思われるものの、地図上に×印を置くときに、どれくらいの精度で置かれたのかについては、微妙なものがあるのかもしれない。
射殺地点については別の情報もあり、8月1日に放送されたNHK『ダークサイドミステリー』では、
「ヒグマが射止められたのはこの山の頂上付近」
としながら、下の画像の矢印の先あたりをクローズアップしていた。
この山は、木村氏が地図で記した×印の、すぐ南隣にある。事件現場復元地方向(南側)から見ると、次のような位置関係。
これらの情報をもとに、先の画像乙に各ポイントの位置(推定)を書き込んでみると、次のようになる。(画像丁とします)
射殺地点の二つの候補のうち、どちらが正しいのか、それを探るヒントのような画像が、『慟哭の谷』の中に掲載されている。
木村氏は、この画像について、
「巨熊を射止めた滝の沢遠望、→印の奥に射殺地点がある。古丹別事業区11い林小班」(原文ママ)
としている。(画像向かって右上に矢印。射殺地点は、その奥にあるという。)
おそらく画像「丁」のピンクの点線で示した「沢筋A」「沢筋B」のどちらかが「滝の沢」であり、
「滝の沢」=「沢筋A」であれば、射殺地点の候補としては赤×の位置あたりが有力と思われるし、
「滝の沢」=「沢筋B」であれば、射殺地点の候補としては、『ダークサイドミステリー』の指摘通り、黄色〇の位置が有力なのではないかと。
どの沢筋が「滝の沢」なのかは、古丹別と三渓の合同森林事務所があるのでそこに行って質問してみるか、事件現場復元地に行った帰りにでも浪華橋のあたりに車(バイク)を止め、そのあたりで農作業されてる方を見つけて聞いてみれば(もしかすると苫前の郷土資料館で聞いてみても)、案外わかるかもしれない。
関心をお持ちの方は、調べてみていただければと。
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● 「熊風」について
『慟哭の谷』によると、ヒグマの死骸を乗せた馬橇を人力で引き始めて間もない午前10時30分ごろ、晴れ渡っていた空がにわかに掻き曇り、一寸先も見えない大暴風雪となった。
この日の最大風速は40mとも50mともいわれ、森林は波のように大きく揺らぎ、巨木が次々と倒れた。
木村氏が十数人の古老から聞いた話では、新聞報道を遥かに上回る強烈な風で、氷橋の上を腹ばいで渡ろうとした者が対岸まで吹き飛ばされたという。
大正4年12月28日付の北海タイムス(『慟哭の谷』に掲載)によると、
「14日午前10時よりの暴風は未曽有の猛烈を極め、電柱を折り、屋根を剥ぎ、家屋を倒し、板庫を吹き飛ばし、路上の人を傷付け、船舶漁具を流失または破壊し、巨浪は市街にまで奔入し、為に電信線の如きは北方は18日までも不通なりし。苫前尋常高等小学校の如きは50人の生徒一夜学校に宿泊し、また力昼小学校は校舎を破壊される等、一般に大被害を受け、その損害高、苫前力昼にて5万円ならんと云う(後略)」
その他、掲載されている他の日付の北海タイムス記事にも、暴風に煽られて海岸に押し寄せた怒涛は二十余尺(6m超)、全半壊の家屋多数、避難者の混雑する光景は惨憺を極め、数十年来なかったことだ・・・等の記述がみられる。
ヒグマ射殺後に吹き荒れたこの暴風雪について、木村盛武氏は、江戸後期の地誌『北越雪譜』の、
「山家の人の話に、熊を殺こと二三疋、或ひは年歴たる熊一疋を殺も、其山かならず荒る事あり、山家の人これを熊荒といふ、このゆゑに山村の農夫は、需て捕事なしといへり、熊に霊ありし事古書にも見えたり」
という一節を思い起こさせる、としている。
事件当時に熊狩本部が置かれた三毛別の区長・大川与三吉家の三男・大川春義氏(事件当時、数えで6歳)は、その後、有名な熊撃ちの猟師になった(生涯捕獲頭数102頭)。
作家の倉本聰氏が大川氏に取材した時、その家族が、
「おじいちゃんが一人で山へ入るでしょう。夕方まで全然連絡なしよ。だけど昼頃ちゃんと判るんだ。おじいちゃんが羆を仕止めたかどうかね。何故って、おじいちゃんが羆仕止めた時はうちの庭に烏(カラス)がいっぱい集まってくるの。おじいちゃんまだ山の奥でもね。烏が先に来て待ってるんですから。仕止めた羆が山下りてくるのを」
「それと、(おじいちゃんが山で羆を仕留めると)風が吹くんですよね、いわゆる羆風が。羆風って本当にあるんですからァ」
と語ったということが、吉村昭氏の『羆嵐』解説部分に出ている。
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● 羆を射止めた鬼鹿村のマタギ・山本兵吉について
事件当時は六線沢から山を挟んですぐ西隣、鬼鹿村田代で暮らしていた。
この人物のウィキペディアによると、
「幕末に生まれ、若い頃から山をかけめぐる猟師だったらしく、樺太にいた若い頃にヒグマを鯖裂き包丁で刺し殺した事から、『サバサキの兄』と呼ばれた。また、エゾヤマドリやエゾリスは実弾1発で仕留めることができたと伝えられている。
46歳の時に日露戦争が勃発し兵吉も従軍した。日頃持ち歩いていた当時のロシア製ボルトアクション方式ライフルベルダンII M1870と、トレードマークの軍帽はこの時の戦利品である。
(中略)兵吉が57歳だった1915年(大正4年)12月9日、10日に北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢(現・苫前町三渓)で、開拓民7名がヒグマに殺される三毛別羆事件が発生した。兵吉はこの頃、借金のために銃を質にいれており、たまたま猟を思いたち三毛別付近に来たところ事件を耳にした。三渓 (旧三毛別)の住民の話では10日深夜、11日、12日のどれかに熊討伐隊に参加したというが、詳細は不明である。
(中略)小説などでは大変素行の悪い人物と描かれることが多いが、孫で初山別村の豊岬郵便局に勤める山本昭光によると、酒を呑むと荒れることもあったというが、いつもは優しく面倒見のいい人物だったとのことである。
1959年(昭和34年) 7月、故郷の初山別村で死去した。享年93。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%85%B5%E5%90%89
上記ウィキペディアでは、山本兵吉について、
「兵吉が57歳だった1915年(大正4年)12月9日、10日に三毛別羆事件が発生した」
「1959年(昭和34年)7月、故郷の初山別村で死去した。享年93」
として、年齢的に矛盾する記述がみられる。(三毛別事件当時に57歳だったのであれば、1959年には101歳になる。)
一方、木村盛武氏の『慟哭の谷』によると、兵吉について、「1950年(昭和25年)、92歳の天寿を全うした」とある。
(木村氏の記述を前提とすれば、事件当時の年齢は57歳ということになる。また、三毛別羆事件のウィキペディアでも、兵吉について、「事件当時57歳、没年は1950年で享年92歳」となっている。)
「事件当時に57歳だった」という点で情報は共通しており、一方で、没年については情報が分かれていてよくわからない。
いずれにしても、「長生きした」ということだけは確からしい。
木村氏によると、兵吉は「若いころ樺太で熊をサバサキで刺し殺した(原文ママ)」ことから、「サバサキの兄」とあだ名がついていた。
(サバサキ包丁2タイプ。刃渡りはおよそ12cm)
こういったもので本当にヒグマを---樺太はヒグマの生息地---刺し殺せるものなのか、また、仮に刺し殺したとして、どの程度の年齢・大きさのヒグマだったのかは不明ながら、とにかく、話としてはそういうことになっている。
単に若いころ魚の加工工場に勤めていて、サバサキ包丁を使うのが上手かったことからそのあだ名がついたのではないか、
あるいは、狩りに行く時にいつもサバサキ包丁を携帯していたからそのあだ名で呼ばれるようになったのではないか・・・などとも思ったが、
しかし、「サバサキの兄」というあだ名は兵吉本人にとってまんざらでもなく、また、呼ぶ側にとっても気性の荒かったという兵吉の神経を逆なでしないようなあだ名だったはずで、
だとするとやはり、兵吉はサバサキ包丁を用いて、男たちの目から見てなにかしら勇敢と思える行為をした、サバサキ包丁にまつわる武勇伝みたいなものが本当に有った、そこから来たあだ名だと見るのが妥当なのかもしれない。
兵吉愛用の銃は、ロシア製のボルトアクション式(単発)ライフル「ベルダンII M1870」というものだとのこと。(ロシアで大量生産された銃だが、設計自体は、アメリカの軍人で武器開発の専門家でもあるハイラム・ベルダンという人物によった)
ボルトアクション式とは、平たく言えば、(ベルダンIIの場合は)手元の丸っこいレバーをガチャガチャっと手動で引いたり押したり右横に倒したりしながら弾の入れ替えをしてパンと撃つ方式のもの。
ベルダンIIは構造のシンプルさや、正確性、安定性に優れており、1870年~1891年までロシア帝国軍の制式小銃として採用されていた。(ロシア帝国軍においては、1891年に「モシン・ナガン」という銃にその地位をとってかわられた。)
山本兵吉が狩猟に持ち歩いていたものは、彼が日露戦争(1904~1905)に従軍した時の戦利品だったという。
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● 撃ち獲られたヒグマについて(サイズ等)
(ヒグマの世界最大種、北米コディアックヒグマの皮。長さ386cmとある。真偽は不明)
木村盛武氏『慟哭の谷』によると、撃ち獲られたヒグマは、
「金毛を交えた黒褐色の雄で、身の丈2.7メートル、体重340キロもあり、胸間から背にかけて、袈裟懸けといわれる弓状の白斑を交えた大物であり、推定7、8歳、前肢掌幅20センチ、後肢掌長30センチ、その爪はまさに鋭利な凶器であった。頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。これほど特徴のある熊を誰も見たことはないという。」
初弾で心臓付近に撃ち込まれた時の苦悶によるものか、食いしばった顎は舌を咬んでいた。
また、犬歯が大きく欠損していたが、これは、数馬石太郎家で湯たんぽ用の石を齧ったときに欠けたものと分かった。人間の女の肉体に触れていた石を、歯が欠けるほど噛み締めたのだった。(数馬家の娘で事件当時14歳だったタケによると、同家では長いことこの石を記念に保管していたが、いつの頃からか見失ったという。)
ネット上では、「立ち上がった時の高さ(背丈)が3.6mだった」という話が時おり見られる。
しかし、『慟哭の谷』では「身の丈2.7m」とされており、「3.6m」というのは解体した後の皮の長さだとされている。
その部分を引用すると、
「この熊の皮は毛が荒く毛ずれや古い傷もあって質は悪かったが、その長さは3.6メートル、幅は2.7メートルにも及ぶ大きなものであった。」
たまに言われる「立ち上がった時の高さが3.6m」というのは、この皮の長さ(3.6m)から来た誤解ではないかと想像する。
皮の長さ3.6m(12尺)、幅2.7m(9尺)というキリの良すぎる数字も、大雑把な測り方を連想させる。
キリのいい数字という意味では、「身の丈2.7m(9尺)」「後肢掌長30cm(1尺)」も同じだった。
そもそも、クマのサイズで「身の丈」とはあまり聞かず、よく聞くのは「頭胴長」という言葉であって、それは次の赤線の部分をいうらしい。(鼻の先からしっぽの付け根まで)
「のぼりべつクマ牧場」のサイトでは、歴代ボスの頭胴長が紹介されているが、長いもので234cm(体重450kg)というものがあった。(体重は、冬ごもりの前や後など、季節によってかなり大きな変動があるらしい)
現ボスの「ダイキチ」もガタイの良さで知られているらしく、体重460kg、頭胴長230cm、後ろ足で立ち上がった時の高さが260cmとあった。
富良野にわりと近い新得町の「ベア・マウンテン」(ここはオスばかり飼っている)には、スマートな体形ながら、立ち上がると3m近い個体もいるとのこと。(白斑の袈裟懸けクマも数頭いる)
三毛別事件のヒグマのサイズについては、100年以上前の僻地で起きた事件で、札幌丘珠事件のクマとは違ってその剥製が博物館に入るなどもしていない。死骸が解体されたのは射殺地点から5kmほど下流の「三毛別青年会館」で---射殺地点からほぼちょうど5km下流に多数の避難民を収容していた「三毛別分教場(のちの三渓小学校)」があったので、青年会館もその近く、分教場の併設的な施設だったのではないかと想像する---肉はその場で鍋や石油缶で煮て大勢で食べており、異常に大きかったという頭骨は人手に渡って行方不明、その他の骨は全て解体現場近くの沢に投げ込まれ、皮は芝居の興行主に売り渡されてこちらも行方不明となっている。
要するに扱いがぞんざい極まりなく、「身の丈270cm」「体重340kg」また妙にマニアックな測り方である「前肢掌幅20cm」「後肢掌長30cm」というのが、何をソースにしたのか、「身の丈」とはどこからどこまでを誰がどの程度正確に測ったものか、それらの数字はひょっとすると、木村氏による聞き取り調査の時に、ヒグマの死骸を見た人々が語ったおおよその印象の可能性もあるのではないか・・・、という気がしなくもないものの、
とりあえずそれら数字を信用するとすれば、のぼりべつクマ牧場の現ボス「ダイキチ」を見れば、三毛別事件のクマの大体の大きさがイメージできるのではないかと。
(骨組みがダイキチと同格で、体重が340kgだったのであれば、三毛別のクマは、冬場の穴持たずという状況で餌が乏しく、人間を食害はしたが、まだ痩せていたのかもしれない)
下の画像は、大正期の日本女性とりあえず身長150cmとして、作ってみたもの。
三毛別事件のヒグマは、B~Cぐらいのサイズではないかと。
ちなみに、背の高さ3.6mというのは、大型の雄のアフリカゾウ(体高3.9m)と並べても遜色ないほどの高さ。(画像のゾウ・クマ・ヒトの高さはいずれも左足裏から頭頂までを測定)
アフリカゾウのウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%82%BE%E3%82%A6
約200万~50万年前に南米に生息していた、(今のところ)史上最大のクマとされている「アルクトテリウム・アングスティデンス」という種が、後ろ足で立ち上がった時の高さが3.3~3.6m、体重1600kg前後と見積もられている。
仮に三毛別事件のヒグマが、足裏から頭頂まで掛け値なしでこの高さ(3.6m)なら、クマ類の中で史上最大級ということになるのではないかと。
三毛別のヒグマの背の高さ3.6mは考えにくいとしても、北海道の山奥には信じがたい巨熊も稀にいるらしい。
トムラウシ温泉の近くで、四つ足で立っているときの肩までの高さが150~160cmもありそうな超巨大ヒグマと遭遇したという記事を見つけた。
https://blog.goo.ne.jp/akkii83/e/3ac3026b587c6824042266c443ac1b4e
ブログ主様は、
「ベアマウンテンで飼育されているヒグマよりデカい」
「今まで見たどのヒグマよりも極端にデカイ」
「野生の(エゾ)ヒグマとして最大級の400kg超級」
とされているが、この時に目撃されたヒグマは肩までの高さが150~160cmもあるかと思わせるほどの異常な大きさだったようなので、太らせたら400kg超とかではなく、500kg台(2007年えりも町で520kgの捕獲例あり)~大型のコディアックヒグマ並みの600kg超級とかではないだろうか。
(2015年に紋別市でデントコーン畑を荒らし、撃ち獲られてしまったメタボヒグマ。産経の記事には身長190cmとあるが、ここでいう「身長」とは「頭胴長」のことではないだろうか。縦はあまり大きくはないが、デントコーン畑に居座って食べ続けた結果、400kgにはなった。)
(肩までの高さが女性の背丈ぐらいありそうな北米のコディアックヒグマ。真偽は不明ながら、註釈には体重約900kgとある)
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● 大川春義氏
事件当時の三毛別区長・大川与三吉の三男(当時数えで6歳)。自宅に熊狩本部が設置され、のちに名うてのクマ撃ちになった。
1977年(昭和52年)、ヒグマの捕獲頭数102頭に達し、この年に銃を置くとともに、三渓神社境内に事件の被害者を祀る慰霊碑を自費建立した。
1985年12月9日、三毛別羆事件の70回忌の日に、三渓小学校で講演のため壇上に立ち、話し始めると同時に倒れ、死去した。
以下、同氏のウィキペディアから一部引用。
「大川は屯田兵として入植した事件当時の三毛別区長の大川与三吉の息子であり、(三毛別)事件中に自宅が事件対策本部となっていたことから、この事件の一部始終を見聞していた。
事件終息後に彼は、父から猟師となってヒグマを仕留めることを薦められた。子供ながらヒグマを強く憎んだ彼は、犠牲者たち7人の位牌の前で、犠牲者1人につきヒグマ10頭、計70頭を仕留めて仇を討つことを誓った。
当時の大川家には、アイヌの猟師が山での狩猟を終えた後、買物に立ち寄ることが多かった。少年期の大川は、この猟師たちにヒグマの生態や狩猟の知識を教わって育った。三毛別羆事件のヒグマを仕留めたマタギである山本兵吉にも師事した。
(中略)1985年12月9日、三毛別羆事件の70回忌の法要が行なわれた。(※ブログ筆者注: 12月9日は阿部マユと蓮見幹雄が襲われた第一の事件の発生日) 大川は町立三渓小学校 (のちに廃校) の講演の壇上に立ち、『えー、みなさん……』と話し始めると同時に倒れ、同日に死去した。
大川は酒も煙草もやらずに、当日も朝から三平汁を3杯平らげ、健康そのもののはずであった。その大川が事件の仇討ちとしてヒグマを狩り続けた末、事件同日に急死したことに、周囲の人々は因縁を感じずにはいられなかったという。 (後略)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E6%98%A5%E7%BE%A9

















