北海道苫前・三毛別羆事件(大正4年12月)・その5 | 雑感

雑感

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 北海道苫前・三毛別羆事件

(12月12日夜、討伐隊員は明景家の部屋の上部に銃座を設置し、犠牲となった6人の遺体を囮にヒグマの来襲を待ち構えた・・・画像は矢口高雄先生『野生伝説 羆風』より)

 

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8月4日現在、北海道の知床(羅臼)で飼い犬ばかり狙うヒグマが出現しており、繋がれていた飼い犬が連続5匹喰い殺されたそうです。

飼い犬を食料と認識して異常な執着を見せており、また、昨日(3日)の被害では真っ昼間に襲撃してさらっていくなど、その行動も大胆になっており、完全に「犬版・三毛別事件」の様相を呈しています。ヒグマの執着心をまざまざと見せつけている事件かと。

 

さて引き続き、ウィキペディアからのコピペ(赤茶色の文字)と、木村盛武氏のレポートその他の資料を参考にしつつ若干の補足を加える(白字の部分や画像)ということで進めてみます。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%9B%E5%88%A5%E7%BE%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

三毛別羆事件ウィキペディア

 

 12月12日

 

 討伐隊の組織

 

六線沢ヒグマ襲撃の連絡は北海道庁にもたらされ、北海道庁警察部保安課から羽幌分署長の菅貢(すが みつぐ、階級は警部)に討伐隊の組織が指示された。
討伐隊の本部は三毛別にある大川興三吉の家に置かれた。
一方、死亡者の検死のため馬橇(うまぞり)で一足早く現地に乗り込んだ医師は、正午ごろ山道でヒグマの糞を発見した。それを検分し、中から人骨・髪の毛・未消化の人肉を見つけて立ちすくんだ。

菅警部は副隊長に帝室林野管理局、近隣の青年会や消防団、志願の若者やアイヌたちにも協力を仰ぎ、村田銃60丁や刃物類、日本刀を携えた者を含め、270人以上が三毛別に集まった。
副隊長には土地勘がある帝室林野管理局(現在の林野庁)羽幌出張所古丹別分担区主任の技手である喜渡安信と三毛別分教場の教頭であった松田定一を置き、隊長の菅警部は防衛線である
(現在の)射止橋(の近くに架けられていた氷橋)を封鎖する一方、討伐隊を差し向けた。しかし、林野に上手く紛れるヒグマの姿を捕らえることはできなかった。

 

 待ち伏せ

 

夕暮れが迫り、手応えを得られない討伐隊本部は検討を重ねた。ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性がある。これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案されたが、その獲物が意味するものを前に本部内の意見は割れた。
菅隊長は目的のためこの案を採用し、罵声さえ覚悟して遺族と村人の前に立った。しかし、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れた。事態はそれだけ切迫していた。こうして、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せるという前代未聞の作戦が採用された。

作戦はただちに実行された。銃の扱いに慣れた7名が選ばれ、交替要員1人を除く6名が、補強した梁の上でヒグマを待った。居間に置かれた胎児を含む6遺体の死臭の中、森から姿を現したヒグマに一同固唾を飲んで好機を待った。
しかし、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り、森へ引き返していった。その後太田家に3度目の侵入を企てたが、隊員は立ちすくむのみだった。男たちはそのまま翌日まで待ち伏せたがヒグマは現れず、作戦は失敗に終わった。

 

 12月13日

 

この日、旭川の陸軍第7師団から歩兵第28連隊が事態収拾のために投入される運びとなり、将兵30名が出動した。

一方、ヒグマは村人不在の家々を荒らし回っていた。飼われていた鶏を食い殺し、味噌や鰊漬けなどの保存食を荒らし、さらに、服や寝具などをずたずたにしていた。
中でも特徴的なのは、女が使っていた枕や、温めて湯たんぽ代りに用いる石などに異様なほどの執着を示していた点だった。三毛別川
(の支流のルペシュペナイ川)右岸の8軒がこの被害に遭ったが、ヒグマの発見には至らなかった。

しかし、その暴れぶりからもヒグマの行動は慎重さを欠き始めていた。味を占めた獲物が見つからず、昼間であるにもかかわらず大胆に人家に踏み込むなど警戒心が薄れていた。そして、行動域がだんだんと下流まで伸び、発見される危険性の高まりを認識できていなかった。菅隊長は氷橋を防衛線とし、ここに撃ち手を配置し警戒に当てた。

午後8時ごろ、橋で警備に就いていた一人が、対岸の切り株の影に不審を感じた。6株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかもかすかに動いているものがある。報告を受けた菅隊長が、「人か、熊か!」と大声で誰何するも返答がない。隊長の命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放った。すると怪しい影は動き出し闇に紛れて姿を消した。やはり問題のヒグマだったのだと、仕留めそこないを悔やむ声も上がったが、隊長は手応えを感じ取っていた。

 

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続いて、木村盛武氏によるレポートなどを参考にしつつ、補足的なものを。

 

 討伐隊について

 

12月9日(太田家)と10日(明景家)の凶報が北海道庁に届いたのは12月12日(日)のことだった。
北海道庁保安課はこの報告に対し、折り返し羽幌警察分署長・菅貢(すが みつぐ)警部に宛て、「地元青年会・アイヌなどの協力を得て獲殺すべし」との指示を打電した。

分署長は直ちに熊狩本部を編成、併せて近隣の農村民から討伐隊員を募った。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

(『野生伝説 羆風』より)

 

一挺でも多く討伐隊の手元に猟銃を集める必要があったが、無鑑札(無届け、違法)で猟銃を隠し持っている農民たちが銃の供出に協力するのは期待薄だった。そこで分署長は異例の措置をとった。

 

「無鑑札での猟銃所有に対する処罰を免除すること」

「猟銃を供出した後に(正規届出の際に)発生する登録料を免除すること」

 

この二つを条件として、羽幌警察分署長名により、猟銃の供出命令を告示したのである。

結果、近隣の農村民から、無届けで隠し持っていたものも含めて、60挺余りの猟銃が供出された。

 

12日夕刻には、羽幌、小平などからも青年団、消防組、有志の農村民などがそれぞれ村田銃、日本刀、槍、鉈、マサカリその他の刃物を携え、百姓一揆もかくやの装束で陸続と三毛別地区に集結した。
熊狩本部は三毛別川とルペシュペナイ川の合流点近くにある三毛別の区長・大川与三吉宅に設置され、本部隊長には羽幌分署長自身が就任した。

副隊長には帝室林野管理局羽幌出張所古丹別分担区員の喜渡安信技手と、三毛別分教場教頭で予備役陸軍少尉でもある松田定一がそれぞれ任命されたが、中でも現場の地勢に通じ農民にも信望の厚かった喜渡技手が事実上の采配を振るうことになった。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

(再掲。向かって左上、熊狩本部は三毛別の区長・大川与三吉宅に設置された。すぐ近くには現在「射止橋(うちどめばし)」が架かっているが、このあたりに事件当時、氷橋が架けられていた)

 

北海道苫前・三毛別羆事件

(射止橋<うちどめばし>の北側のたもとから、南方を望む)

 

熊狩本部の至上命題は、「いかなる事態が起ころうとも、三毛別川をクマに渡らせてはならぬ」であった。三毛別地区は開拓の歴史も六線沢より古く集落も多い。またその面積は、谷あいの袋小路のような六線沢よりも遥かに広く、北は古丹別、苫前の海岸線まで通じており、ここに侵入されれば被害の拡大は計り知れない。

このため本部は六線沢にクマを封じ込め討伐隊を差し向けて撃つ作戦をとる一方で、三毛別川一帯の要所の農家に銃手数人、勢子十数人を配置し、水も洩らさぬ布陣を敷いた。

 

 現場検証と検死

 

これも、菅分署長が熊狩本部を編成した12月12日(日)の動きだった。

この日の正午前、現場検証と検死のために、駐在所巡査と、古丹別の医師・沢谷房吉が、客仕立ての馬車で開拓地に入った。

六線沢沿いの山路に点々と排泄されたクマの糞が沢谷医師の目に留まったが、それらの糞を検分すると、人骨や人毛、未消化の人肉が混ざっており、そのむごたらしさに慄然としたという。

午後、二人は北海道庁警察部より派遣された警察医・木村真之助の一行と共同で犠牲者全員の検死を行った。

 

 遺体を囮(おとり)に・・・待ち伏せ作戦

 

9日の太田家での惨事からすでに3日が経過していたが、クマの姿は一向に捉えられず、この日(12日)もむなしく暮れかかっていた。

季節が季節だけに、このままぐずぐずしていると冬籠りをされてしまう恐れもあり、熊狩本部としては早期決着のため何かしらの思い切った手段に打って出る必要に迫られていた。

そこで提案されたのが、犠牲者たちの遺体を囮としてクマをおびき寄せ、待ち伏せた銃手により射殺する、というものだった。

 

「林内には餌がない。狙われるとすれば開拓小屋と遺体以外にない。熊は飢えているから必ずやってくる。この際は心を鬼にし、遺体を囮にする以外に手はない」

 

前代未聞のこの案に本部の意見も分かれたが、分署長が涙ながらにこの可否を遺族や村人たちに諮ったところ、意外にも誰一人として反対する者はいなかった。事態はそれほど切迫していた。

 

作戦は12日のうちに実行に移された。

最も多くの死傷者を出した明景家の部屋の上部に頑丈なやぐらを組んで大人十人ほどが座れる銃座を設置、そこから見下ろす同家の居間には厚むしろを敷き、その上に、辻橋蔵家で亡くなった斉藤巌を除く、蓮見幹雄、阿部マユ、明景金蔵、斉藤タケ、斉藤春義と胎児の6遺体を並べた。

銃撃隊員として、三毛別のマタギ・谷喜八に加え、山本仁吉、南部の禿マタギ(氏名不詳)、千葉幸吉、徳井健蔵、加藤鉄士、辻仁右衛門ら7人を選抜、交代要員1人を除く6人の銃手が夜陰に乗じて銃座に着いた。3人が入口方向に銃口を向け、残る3人がそれぞれ別の3方向に狙いを定め、どこからクマが侵入しようと対応できるよう、万全の態勢を敷いた。

待つこと久し、狙い通り巨熊は現れた。しかし内部の気配を察したのか、踏み込むことはせず、家の周囲を2、3度回ったのみで暗闇に姿を消した。銃撃隊員は一人ずつ適時交代する以外は屋内にとどまり、食事も死臭漂う中で取りつつ張り込みを続けたが、クマが再び姿を現すことはなかった。

 

むなしく明景家で待ち続ける銃撃隊をよそに、午後8時過ぎごろ、クマは通夜の晩に襲いそこなった無人の太田家に3度目の侵入を行っていた。手当たり次第に雑穀類を食い荒らし、床の荒むしろを払い除け、夜具、衣類に至るまでズタズタに食いちぎって外にまき散らし、糞尿を垂れ流したまま林内へと消えた。この時、付近には警戒中のマタギが張り込んでいたものの、恐怖のあまりなすすべもなく立ち竦むのみであった。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

(『野生伝説 羆風』より、囮作戦のイメージ。苫前町郷土資料館の資料によると、この作戦が実行されたのは「12月11日と12日の二晩」であり、この時の銃手の中には、12月14日にクマを射殺することになる鬼鹿のマタギ・山本兵吉がいた、とされている。木村盛武氏がその著書で挙げている山本姓の銃手は「山本仁吉」であり、郷土資料館の資料とは食い違う部分ながら、どちらが正確かは不明。『野生伝説 羆風』では、12月11日には囮の遺体無しで待ち伏せ、翌12日には囮の遺体を置いて待ち伏せたという設定になっており、また、「銃手の中に山本兵吉がいた」という設定にはなっていない。)

 

 軍隊への出動要請について

 

木村盛武氏によると、12月12日(日)の夜遅くに、「一挙に山狩りして撃ち獲る」との方針のもと、旭川第七師団に出動の要請がなされ、翌13日(月)深夜、旭川を発った歩兵第28連隊の将兵30人が留萌へと向かったが、14日(火)夕刻に巨熊射殺の報に接し、留萌から直ちに引き返した。

ただし木村氏によると、この「軍への出動要請」云々については、「12月13、14の両日に獲り損ねた場合は、軍への出動を要請するよう取り決められていた」とする説もあるとのこと。

木村氏が調査した昭和30年代には帝国陸軍が崩壊していたこともあり、いずれの説が正しいかの確認はできなかったという。

(12月12日の夜といえば、明景家で遺体を囮に銃撃隊員が張り込みを続けていた夜であり、その夜に「一挙に山狩りして撃ち獲る」との方針を立て軍隊への出動要請を行ったとする説よりは、「13、14の両日に獲り損ねた場合は出動要請する予定だった」とする説のほうが、流れとしては腑に落ちる気がするが、どうだろうか。『野生伝説 羆風』のこのあたりの描写は、後者の説によって描かれている。)

 

 12月13日(射殺前日)夕刻、ヒグマの六線沢家屋への軒並みの乱入について

 

この日の夕刻、ヒグマは六線沢のルペシュペナイ川右岸に立つ8軒の開拓農家に軒並み侵入を開始した。

この日侵入を受けたのはこれまで侵入被害のなかった8軒で、戸主は川の上流から順に、「中川孫一」「数馬石太郎」「松田林治」「松村長助」「中川長一」「吉川輝吉」「辻橋蔵」「松浦東三郎」だった。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

(画像中、ピンクが12月13日に侵入を受けた家。13日以前に侵入を受け人身被害もあった太田家や明景家も加えて、ルペシュペナイ川右岸のすべての家屋が侵入を受けた。逆に、ルペシュペナイ川左岸の「金子富蔵」「斉藤石五郎(妻子が明景家で被災)」「岩崎金蔵」「佐々木友作」「池田富蔵(軒下のトウモロコシ被害)」の5軒は、事件発生から一貫して家屋への侵入被害は受けなかった。

 

13日の侵入被害の手口は、鰊漬けや雑穀を食い荒らす、鶏舎を襲って鶏を食い殺す、夜具や衣類をズタズタに破る、屋内を散々破壊し、床一面に糞尿を垂れ流して立ち去るというものだった。特に婦人の身に着けるもの---腰巻・肌着・履物等---には異常な執着を見せ、外にまで持ち出していた。

数馬石太郎の家では妻アサノが湯たんぽに使っていた石を引っ張り出し、その包みを引き裂き、まるで漬物でも齧るようにバリバリと噛み砕いた。(北海道の郡部では、冬季に手ごろな石を囲炉裏で焼き、布でくるんで湯たんぽとして使っていた。木村盛武氏は昭和30年代に、事件当時14歳女子だった数馬タケに聞き取り調査をした。それによると、数馬家では事件後長らくクマに齧られたこの石を記念に保管していたが、いつのころからか見失ったという。)

この時、警戒のためにこの付近を巡回していたマタギ・山本兵吉と鈴木隊員は、クマが石を齧る音を、50mほど離れた地点で偶然耳にした。それは怪しいまでに軽快な金属音に聞こえたというが、最初に味を占めた人間の女の肌身に触れていたものとなると狂躁状態になるのか、石にまで齧りつく執拗さだった。

 

 12月13日(射殺前日)、氷橋付近での一斉射撃について

 

12月13日の夜8時ごろ、三毛別川とルペシュペナイ川との合流点---氷橋の付近---を監視していた討伐隊員が異変に気付いた。対岸の川岸にはヤナギの大木の切り株が6本あったが、討伐隊員が何気なくその切り株を眺めてみると、暗闇とはいえ、どう数えても1本多い。しかもその多い1本がわずかながら動いているように見える。隊員は直ちにこれを熊狩本部に報告した。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

(隊員は暗闇に目を凝らしたが、どう数えても対岸の切り株が1本多いような気がしたという)

 

切り株に紛れた怪しい黒い影の動きは、クマが三毛別地区に向かい本流を渡ろうと川底を探っているようでもあった。しかし一方でそれは対岸で警ら中の討伐隊員の一人である可能性もある。やがて作りかけの氷橋を踏みしめるかのようなミシミシとした音がし始めた。

 

「人か!! 熊か!!」

 

かねて取り決められていたこの合言葉を、本部隊長の菅・羽幌分署長は大声で3度叫んだ。3度叫んで応答のない場合は直ちに発砲することになっていた。影からの応答はなかった。十数挺の村田銃が対岸に向け一斉に火を吹いた。分署長は当時珍しいといわれた二連銃で撃ちまくった。しかし仕留めるには至らず、クマは川向こうの雪原を飛ぶように走り去った。

この夜も不思議と不発の銃が多く、これまで不発のなかった銃までがその夜に限って不発となるなどしたため、「あの熊には悪魔が加勢している」「撃つと祟られるぞ」などと弱音を吐き、縁起を担ぐ者も出る始末だった。すでに夜8時を過ぎていたことから、翌14日を期して総攻撃をかけることとし、討伐隊は夜が白むのを待った。

 

北海道苫前・三毛別羆事件

(対岸の怪しい影に向かい十数挺の銃が一斉に火を吹いた。画像は『野生伝説 熊風』より)