(現場復元地では可愛らしい子熊の像もお出迎え)
※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います。※※
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さてここで先日来言っていました太田家と明景家の跡地の位置について、少し詳し目に触れてみます。
北海道旅行にはちょうど良い季節なのではないでしょうか?
以前の記事内容と重複しますが、まずは六線沢開拓部落の位置を。(再掲)
上の画像のピンク枠内にクローズアップすると、(再掲)
木村盛武氏による六線沢の地図を見てみると、(再掲。向かって右側が木村氏による地図。赤や黄色は当方による着色)
木村氏の地図の、明景~太田家のあたりを拡大してみると、(画像Aとします)
画像Aに該当するエリアの航空写真が以下。(画像Bとします。1977年10月の撮影。最新の衛星画像では岩崎金蔵家付近の川の流れが少し変わってしまっているのですが、1977年の時点ではまだ流れに変化が見られないので、この年に撮影された画像を用いました。)
画像Aと画像Bを重ね合わせてみると、(画像Cとします)
画像Cをもとに、先の画像Bに各ポイントの位置を書き込んでみると、(画像Dとします)
画像D(1977年撮影)をもとに、現在のグーグル衛星画像で、明景家のあたりにクローズアップしてみると、
(※ 8月2日追記: 「その2」「その3」でも追記しました通り、8月1日放送のNHKBS『ダークサイドミステリー』では、「明景安太郎家」の位置について、「推定」としたうえで、上図で言えば黄色の四角で囲んだあたりとしていました。)
木村盛武氏によると、明景家は下の画像中の小さな木橋を(古丹別側に)渡ってすぐの地点にあったらしく、
その木橋・・・少なくともその木橋に近い地点に後世造られた橋は、以下のこれだろうと。(橋H)
この橋の、古丹別から見て手前側、水色矢印の方向が、木村盛武氏『慟哭の谷』掲載の地図による明景家跡地の方向・・・と思われる。(一方でNHK『ダークサイドミステリー』では、「推定」としつつ、黄色矢印方向の林の中を明景家跡地としていた。)
橋Hから古丹別側(北側)を望んでみると、
水色矢印(あるいは『ダークサイドミステリー』によれば黄色矢印)の方向の藪中にかつての明景家跡があると思われますので、関心のある方は、足を踏み入れ探索してみてください。
ただし、明景家については、木村盛武氏は先のように道道1049号(ベアーロード)わきに明景家の跡地が位置するような地図を示す一方、別の個所では、
「明景家跡は既に道道の下深くに埋没してしまい・・・」
とも記しているので、まさにこの橋Hを古丹別側に渡ってすぐの地点の道路下に埋もれてしまっている可能性もあります。
位置が大きく外れているとは思いませんが、ピンポイントで特定できているかというと、それもないと思います。「大体このあたり」・・・程度に見ていただければと。
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次に太田家の跡地です。
まずは再度、画像D(1977年撮影)を・・・
(※ 明景家の位置については、先の追記の通り、NHK『ダークサイドミステリー』では、上図の黄色の四角で囲んだあたりとしていた)
現在のグーグル衛星画像で、太田家跡地エリア(下図赤枠)と道道1049号(ベアーロード)との位置関係を見てみると、
ちなみに、阿部マユの遺体発見現場については、もしかすると、谷を挟んで向かい側の黄色〇地点の可能性無きにしも非ずかという気がしましたので(理由はここでは省略させていただきます)、一応そちらも候補としておきました。
木村盛武氏はその著書の中で、太田家跡地の隣に太平洋戦争終結後に建てられた家屋であるとして、下のEとFを紹介しています。
木村氏は、上のEとFが同一建物であるかどうかについては述べていませんが、Fについては、ピンク〇のあたりに太田家があったのだとしています。(ちなみにFの右上、一見建物のすぐ左隣かと思える場所に木が生えていますが、大体こういうのは目の錯覚で、実際は建物からけっこう離れた場所に生えているものと私は見ています。)
また、Gの建物群については、木村氏は、「終戦後、クマの被害にあった開拓地に建てられた建物」とのみ紹介しており、EやFとの同一性については言及していません。(ちなみに、事件に遭った太田三郎は、事件の翌春早々に家を焼き払い、知人を頼って羽幌方面に移住し、いつしか故郷である東北に戻ったとのこと。)
私としては、EFGすべて同一の建物だろうということで・・・。
いずれにしてもこうした建物が、太平洋戦争の終戦後、太田家跡地のごくごく近くに建てられたとのことなのですが、
ストリートビューで太田家跡地付近とおぼしきエリア(二つ前のグーグル画像の赤枠のエリア)を見てみると、それら建物の名残り(廃屋)らしきものがどうもまだ林の中に残っているらしく、例えば次の画像の水色矢印の先などがそれではないかと。
拡大してみると板張りの壁のようなものが見えるが、目の錯覚だろうか・・・、
仮にこうした物体が、木村盛武氏が紹介していた先のEやFの建物の成れの果て(廃屋)だとすれば、太田家跡地は、こうした廃屋のやや南側に位置していたものと思われます。
二つ前の画像のピンク枠の部分を拡大すると、右手に廃道の入り口があります。
廃道入り口正面から見てみると、
この画像の、ピンク矢印方面の藪の中に、かつての太田家跡地があるものと想像しますが、やはりピンポイントでの特定は無理なので、「おおむね、この一帯」ということで・・・。
関心のある方は、この廃道入口あたりに車かバイクを止めて、ピンク矢印、水色矢印の一帯を探索してみていただければと。