ヒンターカイフェック殺人事件・その8(1921年7月~1922年4月1日未明) | 雑感

雑感

たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

ヒンターカイフェック殺人事件

(再掲。カイフェックや、ヴィクトリアの夫カールの故郷であるラークの位置を画像中に追加した)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

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1921年7月中旬~8月中旬、ヒンターカイフェックから1kmほど南に下ったところにあるカイフェックという集落の出身でクレスツェンツも見知っていたターラーという男(当時24)が、深夜、メイド部屋の窓越しに夜這いをかけてきた。

クレスツェンツによると、ターラーは窓をノックしながら、「開けてよ。仲良くしない?」などと誘ってきたという。

月明かりの晩で、クレスツェンツには、男が間違いなくターラーであることが見て取れた。

「私の赤ちゃんと仲良くしているから、あんたとは遠慮するわ」

クレスツェンツがそう言って相手にせずにいたところ---この時、クレスツェンツの隣には3月に生まれた赤ちゃんが乳母車の中で寝ていた---窓の向こうで誰かが草の中を歩くような音がした。

「そばに誰かいるの?」

クレスツェンツが問うと、ターラーは、「誰もいないよ。夢でも見てるんじゃない?」と答えた。

ターラーは話題を変え、「若いほうの奥さん(ヴィクトリア)は、どこで寝ている?」と尋ねた。

「知らないわ。本人に聞いたらいいでしょう?」

クレスツェンツが答えると、ターラーは、「彼女は寝室のベッドで親父(アンドレアス)と寝ているよ。男の子(ヨーゼフ)は乳母車の中、女の子(ツェツィーリア)は親のベッドの足元にある子供用のベッドで寝ている」と言い、さらに、「この家には金がたんまりある。日中はかまどの中、夜はベッドの下に隠しているな」

などと言った。

「そんなこと知らないわ」

クレスツェンツはそう答えたが、やがて30分ほどもしたころに、ターラーは諦めて窓際を去ったという。

 

ターラーが去るとすぐにクレスツェンツは起きだして台所に行き、窓から外の様子をうかがった。

月明りを頼りに目を凝らすと、ターラーのほかに、もう一人の男がいた。

二人の男は、最初井戸のほうに歩いて行ったが、すぐに回れ右して畜舎の正面あたりに来て立ち止まり、そこからエンジン小屋を見たり、建物の上方に目をやったりしていた。

連れの男は、ターラーよりもやや小柄だった。

クレスツェンツはその体型から見て、男はターラーの弟ではないかと思ったという。

ターラー兄弟は、それまでにもいくつか侵入盗を働いたことで知られていた。

 

翌朝、クレスツェンツがこの顛末をグルーバー夫妻やヴィクトリアに話すと、ヴィクトリアは、「彼らに決して窓を開けてはいけない」と言った。

さらにクレスツェンツはこの時、ターラー兄弟がらみで、前年に起きていたある出来事について知らされた。

それによると、前の年にターラー兄弟が夜中に車置き場に侵入しているところをアンドレアスが発見し、ライフルで威嚇射撃をしたことがあったのだという。

クレスツェンツもこの時の発砲音を耳にしていたが、妊娠中のクレスツェンツが怖がってはいけないとの配慮から、発砲の理由(ターラー兄弟による侵入盗)については伏せられていたのだった。

 

ヒンターカイフェック殺人

ヒンターカイフェック殺人事件

(1枚目は再掲、2枚目は、北側から農場建物を見た図。ターラーとその弟とみられる二人組の動きを黄色い点線で表してみた。2枚目の画像右側に---見えていないが---メイド部屋の窓がある。台所の窓から覗き見ていたというクレスツェンツによると、二人組は、メイド部屋の窓からいったん井戸のほうに歩き、回れ右して畜舎の正面あたりに行って立ち止まり、そこからエンジン小屋を見たり、建物の上方に目をやったりしていたという。)

 

また、このターラーによる夜這いと同じ時期のこと、クレスツェンツによると、鍵をかけているメイド部屋のドアが夜中の12時ごろにひとりでに開くという現象が、毎晩のように続いたという。

誰かいるのかとクレスツェンツが調べてみても、ドアの向こうに人はおらず、ひっそりと静まり返っているのだった。

 

1921年8月末頃、グルーバー家のメイド、クレスツェンツ・リーガーが、仕事を辞めて農場を去った。

辞めた理由について、後世には主に、「メイドは、屋根裏から夜な夜な響く正体不明の足音や声など不気味な現象に怯え、この農場は何かにとり憑かれていると言って辞めた」・・・といった内容が伝えられている。

しかし、クレスツェンツ自身が語っている辞めた理由は三つで、

一つは、先述した通り(「その7」)、ビヒラー(夜這い男)による、「クレスツェンツを殺してやりたい」「ヒンターカイフェックの奴らは全員、死に値する」等の穏やかならぬ言葉がクレスツェンツの耳に入り、このままでは農場の全員が殺されてしまうのではないかと恐ろしくなったこと、

二つ目は、盗みで知られ、前年にはグルーバー家といきさつのあったターラーまでもがクレスツェンツの部屋に夜這いにきたこと、その際に、弟と思われるもう一人の人物と建物の様子をうかがうなど、不審な動きを見せていたこと、

三つめは、ターラーによる夜這いと同じ時期に、鍵をかけているメイド部屋のドアが深夜12時ごろにひとりでに開くという現象が、毎晩のように続いたということ、

これらのことに恐怖を覚えたクレスツェンツは、ヴィクトリアに、「こんな気味の悪い状況では、もうこの農場に居られない」ということを告げた。

ヴィクトリアは、このおしゃべりだが気の利いていそうなメイドが気に入っていたらしく、辞職を思いとどまらせようとしたという。

しかし、クレスツェンツは反対を押し切って、8月末ごろに農場を去った。

 

(辞職の理由は、「屋根裏から夜な夜な響く正体不明の足音や不気味な声」といったものに怯えて辞めたのではなく、怯えた対象は別のもの---「ビヒラー」「ターラー」「深夜12時の怪現象」---だったということ。細かい部分かもしれないが、例えば、「屋根裏からの足音や声に怯えて辞職した」としたままだと、「では、クレスツェンツが辞職した1921年8月末ごろから、グルーバー家の屋根裏には誰かが住み着いていたということではないか?」という、間違った---その可能性もゼロではないにせよ---推測につながってしまうので、ここは明確にさせていただいた。)

 

ヒンターカイフェックを辞職後、クレスツェンツはシュローベンハウゼンで、新たにメイドとしての職場を得た。

(このころに、3月に生まれた子供は里子に出されている)

 

1922年3月17日(金曜日)ごろ、グルーバー家が通っていたヴァイトホーフェンの教会の神父が、懺悔室に700金マルクが封をされ置かれているのを発見した。

神父はそれぞれの信者家族の経済状況についてはよく分かっていたが、この額の寄付をできるのはグルーバー家の誰かに違いないと考え、ヴィクトリアに心当たりを尋ねたところ、ヴィクトリアはしばらくの躊躇ののち、確かにその金を置いたのは自分であるということを認め、「慈善活動のために使ってほしい」旨述べたという。

 

(この情報は、事件の約10年後の1931年にホーエンヴァルトの警察署に配属され捜査に関わった---つまり初期の捜査には関わっていない---クサーファー・マイエンドレスという元捜査官が、その17年後の1948年に、自身の記憶をもとにして書き残した覚書による。

ただし、700金マルクの寄付の話については、1920年代に関係各方面から収集された証言には全く出ておらず、また、警察の公式記録にも出てはいない。

さらに、この覚書の作者の言うところは事実誤認が多く---例えばヴィクトリアの夫カールについて「1916年にロシアで戦死した」と述べていたり(実際はカールは、1914年12月にフランス北部で戦死している)、「2歳ヨーゼフの遺体は、台所で見つかった」「7歳ツェツィーリアの遺体は、ヴィクトリアの寝室で見つかった」「メイドのマリアは、殺害される8日前からヒンターカイフェックで働いていた」などと述べる等、「本当に捜査に関わったことがあるのだろうか?」と訝しく思えてくるほどに事実誤認が多く、

この事件について調べている外国の方々の間でも、この元捜査官による覚書の内容については「鵜呑みは禁物」という感じの扱いであり、先の700金マルクの話についても、眉に唾付けて見る程度で丁度よいのではないかと思われる。

 

1922年3月23日(木曜日)ごろ、ヴィクトリアが、グレーベルンに住む知人(当時67)の馬車に相乗りさせてもらってシュローベンハウゼンに行く途中で、その知人に対し、「これから地方裁判所に行き、認知しておきながら2歳ヨーゼフの養育費を支払おうとしないシュリッテンバウアーに対して、訴訟の準備をするつもりだ」と打ち明けた、という話がある。

ただしこの話は、1952年(事件の30年後)に、遺体の第一発見者の一人であったヤコブ・ジーグルという人物が警察からの再聴取に応じて持ち出した噂話であり、それまでの捜査の中では、この「事件直前にヴィクトリアがシュリッテンバウアーに対して訴訟を準備しようとしていた」という事実(証言も)は一切出てきていない。(つまり、事件から30年後のジーグルによるそれが初出)

また、ヴィクトリアを馬車でシュローベンハウゼンまで送ったという人物(1922年当時67歳)も、ジーグルがこの噂話を持ち出した22年も前に、既に故人となっていた。

 

遺体の第一発見者の一人であったジーグルという人物は、事件発生前のグルーバー家とシュリッテンバウアーとの諍(いさか)いや、遺体発見時の状況から見て、「犯人はシュリッテンバウアー以外ありえない」と思い込んでおり、

それゆえに、シュリッテンバウアーがまだ存命のうちから(同人は1941年に死亡)、ジーグルは、「シュリッテンバウアーが怪しい」と人々に吹聴し、シュリッテンバウアーの息子にまで父に対して不利な証言をするよう促したということで、両者の間では訴訟沙汰になっていた。(ジーグルは敗訴し、罰金刑を課せられている)

1952年になってから、警察の再聴取に対して先の噂話を持ち出した時にも、同時期、ジーグルはメディアの取材に答えて、明言は避けつつも、シュリッテンバウアーが犯人であるということを主張している。

「事件直前に、ヴィクトリアがシュリッテンバウアーに対して訴訟を準備していた」という話は、そういった状況の中で---つまりジーグル的には、なるべくシュリッテンバウアーを黒にしたい状況の中で---語られた話であることを、押さえておく必要があるかと。

 

 

(以下の「3月25日前後」としている情報は、外国のサイト---とくに英語圏のそれ---に散見される情報で、わたし的にはガセだと思っていますが、いちおう、自分の考えもあわせて掲載してみます。)

 

 

1922年3月25日(土曜日)前後の夜、ヴィクトリアの娘ツェツィーリアの同級生(当時6)とその母親(当時45)が、夜間、グレーベルンからヴァイトホーフェンへと行く道すがら、森の中の四つ辻に座り、ふるえながら大泣きに泣いているヴィクトリアと出くわした。

ヴィクトリアは心底何かに怯えている様子だったが、泣きじゃくるばかりでその理由を言わず、ただ、「逃げなければ」と繰り返すばかりだった。ツェツィーリアの同級生の母親は、なんとかヴィクトリアを慰め、諭したうえで家に帰した。

この出来事の2~3日前から、ヴィクトリアは友人らに、「軍用のコートを着た見知らぬ男が森の縁から農場を見ていたが、近づくとまた森の中に消えていった」ということを語っていたという。

 

(まず、「ヴィクトリアの娘ツェツィーリアの同級生(当時6)とその母親(当時45)が、森の中で何かに怯え、『逃げなければ』と言いながら大泣きに泣いているヴィクトリアを発見し、慰め諭したうえで家に帰した」という話は、多数の証人らの証言をはじめとする警察資料には一切出ていない。

ただし、これに似た話は出ており、それは当のツェツィーリアの同級生(当時6)が大人になってから3度、聴取に応じた際に証言したもので、

1度目の聴取(1951年)によると、「3月30日の夜、アンドレアスから叩かれたヴィクトリアが家を飛び出した。残された家族はランプを手に森を探したが見つからず、近くの川に入水してしまったかと思っていたところ、明るくなったころに森で、切り株に座っているヴィクトリアを見つけた。私はこれらの話を、亡くなった同級生のツェツィーリアから、3月31日に学校で聞いた」とのことで、その証言には、「ツェツィーリアの同級生とその母が、森の中で怯え泣きじゃくるヴィクトリアを発見し、慰め諭して家に帰した」という話はまったく出ていない。

2度目の聴取(1980年)でも内容は変わらず、

3度目の聴取(1984年)では、アンドレアスから叩かれて家を飛び出し森に逃げていたのが、なぜかヴィクトリアではなく祖母の72歳ツェツィーリアだったことになっているが---この同級生は3度目の証言時すでに70歳手前だったので、記憶が曖昧になっていた可能性がある---その他の内容は1度目の証言と変わらず、「ツェツィーリアの同級生やその母が、森の中で怯え泣きじゃくるヴィクトリアを発見し、慰め諭して家に帰した」という話は出ていない。

 

また、「軍用のコートを着た見知らぬ男が、森の縁から農場を見ていた」という話は、例のインゴルシュタットに本拠を置く地方紙『ドナウクーリア』の編集者であり作家でもあるルートヴィヒ・ヘッカーの記事が元ネタと見て間違いないと思われるところ、

要するにこの「森の中で『逃げなければ』と言いながら怯え、泣きじゃくっていたヴィクトリア」という話は、ヘッカーによる「森の縁から農場を見ていた不気味な男」という(作り)話に、先のツェツィーリアの同級生による証言---「アンドレアスから叩かれたヴィクトリアが、家を飛び出し森にいた」というもの---を融合させ、謎を深める新たなエピソードとして創作されたものではないかと推測する。)

 

1922年3月26日(日曜日)、シュリッテンバウアーの再婚による最初の子(娘)が死亡した。

誕生日は1922年2月25日だったので、わずかひと月ほどの命だった。

ヴァイトホーフェンのカトリック教会の記録簿には、死亡原因として「百日咳」と記録されている。

(百日咳=「特有のけいれん性の咳発作(痙咳発作)を特徴とする急性気道感染症(国立感染症研究所)」)

 

同日、「ヴァイトホーフェンの教会の門のそばで、ヴィクトリアが見慣れない男とちょっとした口論になっていたのを見た」との情報がある。

この情報は、シュリッテンバウアーの長男ヨハン(当時16)が、1951年~1952年にかけて、およそ25歳も年下の腹違いの弟(アロイス)に語って聞かせた、事件にまつわる情報のうちの一つ。

ただしこれも、「事件後、地域一帯から犯人視されたシュリッテンバウアーの息子による証言」であることに留意する必要はあるかと。

 

ちなみにこの「ヴィクトリアと見慣れない男が教会の門のそばで口論」という話は、その後、例のルートヴィヒ・ヘッカーにより、いろいろと尾ひれのついた形で紙面上に掲載された。

(初回の掲載が1972年であり、その改訂版がヘッカーの死後、2007年に掲載された。ヘッカーについては過去記事でも触れているので、以下のURLにて)

https://ameblo.jp/maeba28/page-4.html

 

2007年の改訂版によると、1922年3月30日(つまり事件の1日前)、ヴァイトホーフェンの教会で聖歌隊のリハーサルに参加していたヴィクトリアは、その終了後、帰る間際に靴ひもがゆるんでいることに気づき、教会をとりまいている墓地の壁に寄りかかりながら、そのゆるんだ靴ひもを直していた。

するとそこに見慣れない中年の男が現れ、ヴィクトリアにしつこく言い寄り始めた。

当初ヴィクトリアは「構わないで」などとやり過ごそうとしていたが、その男がヴィクトリアの手をつかんだり、行く手をふさぐようなことをした挙句、なにか侮蔑的なことを口にしたので、ヴィクトリアがその男の頬を平手で打った、というのだった。

 

1922年3月29日(水曜日)、グルーバー家では、母屋の正面玄関の鍵が行方不明になるという出来事があった。

 

--- この29日の夜から一晩中、雪が降ったと思われる ---

 

1922年3月30日(木曜日)朝方、アンドレアスは、昨夜から降り続いた新雪の上に不審な足跡を発見した。それは二人分の足跡であり、農場建物の北側にある(グレーベルンとシュローベンハウゼンとを結ぶ)一本道から、納屋に隣接しているエンジン小屋へと続いていた。

見るとエンジン小屋の鍵が壊され、内部に侵入された形跡があった。

また、納屋の北側のドア---ここを開けると遺体が発見された飼料置き場となる---に、バールのようなものでこじ開けられたような形跡があった

これらの状況から、不審者らは「エンジン小屋に侵入しさえすれば、その内部には納屋に通じる入り口があるはずだ」と信じて、エンジン小屋の鍵を破り中に入ってみたものの、エンジン小屋の内部には納屋へと通じる入り口がないことに気づいて計画を断念、

やむなくエンジン小屋の外に出た不審者らは、納屋の北側のドアから直接納屋に侵入するべく、北側のドアをバールのようなものでこじ開けた、その痕跡がドアの上に明確に残った、ということが推測された。

アンドレアスはエンジン小屋や納屋の内部を調べてみたが、何かが盗まれた形跡はなかった。

ただ一つ奇妙だったのは、雪上に残ったその足跡について、屋内に入ってくる足跡はあったが、出ていくそれがなかったことだった。

 

アンドレアスとヴィクトリアがその不審な足跡を調べていた時、郵便配達人が通りかかった。

「入ってくる足跡はあるが、出ていくそれがない」

アンドレアスは、郵便配達人にその話をしたという。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

ヒンターカイフェック殺人事件

(2枚とも再掲。1枚目、黄色い部分が農場建物。見やすくするため、実際より大きく描いた。向かって左下---南西---にのびる道を下っていくと、6km弱でシュローベンハウゼンの市街地に到着する。2枚目の画像は、1枚目のピンクの枠内を拡大したもの。画像中、「隣接する飼料置き場へのドアにも侵入を試みた形跡」として紛らわしい言い方になってしまっているが、アンドレアスは「悪党どもが入り込んでいるに違いない」として、この痕跡を、未遂ではなく既遂のそれとみていた。)

 

同日(3月30日)午前11時ごろ、アンドレアスは、森へ行く途中でシュリッテンバウアーと出くわした。

二人の農地は隣接していたので、こうして出くわすこと自体に不思議はなかった。

シュリッテンバウアーによると、ここでもアンドレアスは彼に対して、「昨晩、泥棒に入られたようだ」として、エンジン小屋の鍵が壊されていたこと、飼料置き場へのドアにも無理やりこじ開けられ侵入された形跡が見られたこと、敷地内へと続いていた怪しい足跡のことなどを話したという。

シュリッテンバウアーが、「誰かが入り込んでいるということ? 銃を貸そうか?」と提案したところ、アンドレアスは、「なに、一人や二人、怖いことはない」としてこれを断った。

シュリッテンバウアーが、「ならホーエンヴァルトの警察に頼んでみたらいい。家の中を徹底的に調べてくれるはずだよ」と提案してみると、

アンドレアスは、「いやいや・・・」と不機嫌そうに首を振りながら、「論外だよ。警察を家に入れるなんてしたくない。自分の身ぐらい自分で守れる」と提案を拒否したという。

「良かれと思って言ったことだから、気を悪くしないでくれ。まあ、気に入ったやり方でやればいい」

「警察」という言葉に思いのほか不快感を示したアンドレアスをなだめようとしたのか、シュリッテンバウアーはそう言ってこの話を終わらせた。

ここでアンドレアスは立ち去りかけたが、2~3歩行ったところで「ああ、そういえば」と振り返り、再びシュリテンバウアーに話しかけてきた。

「鍵を見なかったか? これくらいの大きさなんだが」

アンドレアスは鍵の大きさを指で示して見せた。

シュリッテンバウアーは首を横に振った。

「どうした? 盗まれでもしたのかい?」

そう尋ねたところ、アンドレアスは一度自分の農場の方角に目をやり、次にシュリッテンバウアーのほうに向きなおりながら、その目を直視することなく、

「どうも家の鍵を失くしてしまってね。昨日から行方不明だ。どこにあるのかさっぱりわからない」

そう言い残して立ち去ったという。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(かつての農場と森のドローン映像。ポツンと立っている木の根元付近に供養碑がある。左上のほう、よく見ると、現在でも牛が放牧されている。アンドレアスとシュリッテンバウアーも---季節は違うが---こういった風景の中で立ち話をしたものと思われる。画像奥に向かって森の中を進んでいくと、やがてシュローベンハウゼンに到着する)

 

同日(3月30日)、シュリッテンバウアーに会った後、アンドレアスはまた別の知人に出くわした。

知人はグレーベルン在住の農夫(当時50)で、シュローベンハウゼンの家畜市場へ行く途中でヒンターカイフェック農場のそばを通りかかった際に、アンドレアスと立ち話をしたのだという。

その証言によると、ここでもアンドレアスは、家の鍵がなくなったということや、雪上に残った不審な足跡のことを話し、

「悪党どもが家に入り込んでいるに違いない」

ということを言った。

「家の中を捜索したのか?」

知人が尋ねたところ、アンドレアスは「別に怖くはないから」と、助言をまともに取り合おうとはしなかったという。

 

同日、ヴィクトリアは、シュローベンハウゼンの仲介人からメイドとして紹介を受けていたマリア・バウムガルトナー(当時44)のことで、ミュールリートにあるマリアの妹・フランツィスカの家を訪れていた。

(ミュールリートは、ヒンターカイフェック農場の南西約4~5kmのところにある町)

この時、マリアはミュールリートから約10km離れたキューバッハの元実家に居たため、ヴィクトリアはマリア本人に会うことができなかった。

そこでフランツィスカは、マリアを翌日(3月31日)にヒンターカイフェックまで送り届けることを約束した。

(細かい部分は以下のURLにて)

https://ameblo.jp/maeba28/page-3.html

 

同日夜一頭の牛が畜舎内で紐から離れて走り回り、それに興奮したその他の家畜たちにより、畜舎内が騒然となるという出来事が起きた。

またこの夜、屋根裏からはひっきりなしに人が歩き回るような音が聞こえていた

アンドレアスは懐中電灯を手に屋根裏に上がってみたが、何も見つけることはできなかったという。

 

同日夜---以下、「7歳ツェツィーリアの同級生が成人してから第1回目の聴取に応じたとき(1951年)のバージョン」によると---理由は不明ながら、アンドレアスがヴィクトリアを叩いたため、ヴィクトリアが家を飛び出してしまった。

残された家族は、ランプを手に森を探したが見つからず、近くを流れる川に入水(自殺)してしまったかと思っていたところ、明け方に森で切り株に座っているヴィクトリアを見つけたのだという。

 

(この話は、当該同級生の第3回目の聴取のとき(1984年)のバージョンによると、アンドレアスから叩かれて家を出たのはヴィクトリアではなく、72歳のツェツィーリアということになっている。)

 

同日(別の日の可能性あり)農場の敷地内で、家族の誰も持ち込んだ覚えのないミュンヘンの新聞が見つかった

敷地内の「いつ、どこで、どんな機会に」その新聞が見つかったのか、詳細な情報が伝わっていない。

「いつ」については、「3月30日」ともいわれる一方で、「殺害の5日前」であるとか、日付を特定せず単に「3月」としている情報もある。

この「ミュンヘンの新聞」という情報のもともとのソースは郵便(新聞)配達人であり、この人自身は明確な日付を述べていない。

にもかかわらず、後世の人々がおよそ100年もの間、それぞれの印象で勝手な日付を当てて話を作ってきた結果、話が混乱してしまったものと思われる。

聴取を受けた多数の人々の証言から推し量って、農場敷地内でミュンヘンの新聞が見つかったのは、おそらく3月25日あたり~3月30日までのいずれかの日・・・程度の認識でよいのではないかと思う。

 

また、新聞が見つかった場所については、母屋の正面玄関の近くという情報もあり、また、森の縁(農場の敷地内には森もあった)という情報もある。

先に、「アンドレアスから叩かれて家を飛び出したヴィクトリア(あるいは72歳ツェツィーリア)」の話を紹介したが、この捜索の時に森で当該新聞が見つかった、という情報もある。

 

いずれにしても、このミュンヘンの新聞については、「そういうものが、おそらく3月の後半に農場敷地内で見つかり、グルーバー家の人々が訝しがっていた」・・・ということだけが事実であり、具体的に、どの日に、どの場所で、なんの機会に見つかったのかは不明、という認識でいいのではないかと。

 

同日、4日前(3月26日)に亡くなったシュリッテンバウアーの娘が埋葬された。

(これも、埋葬は3月28~29日との説がある)

 

1922年3月31日(金曜日)、アンドレアスは、郵便配達人から新聞を受け取った。

新聞は、シュローベンハウゼンに本拠を置く地方新聞だった。

グルーバー家への新聞の配達は週3回(月・水・金)であり、いずれも、発行日の一日遅れでの配達だった。

配達時は(郵便ポストではなく)台所の窓のところに挟むのが通常だったが、3月31日(金)の分---人生最後の新聞---は、配達人からアンドレアスに直接手渡しされていた。

この次の配達は「4月3日(月)」になるわけだが、その翌日(4月4日、火)に遺体が発見されており、事件後に人々が囁いた噂話の中には、

「4月3日(月)に配達人が新聞を配りに来た時には、ひとつ前(つまり3月31日)に配った新聞が、まだ台所の窓に挟まったままになっていたそうだ」

というものがあったが、配達人によると、「3月31日(金)の配達分はアンドレアスに直接手渡しをしたのだから、それが4月3日の時点で台所の窓に挟まったままになっていたという人々の噂は真実ではない」とのことだった。

(一方で配達人は、「郵便物」については特に言及しておらず、郵便物については4月1日以降も台所の窓のところに挟んでいたのかもしれない。)

 

同日、アンドレアスは、一家のだれにも心当たりのないミュンヘンの新聞が農場の敷地内で見つかったことを郵便配達人に話し、

「うちの敷地内に、ミュンヘンの新聞を落とさなかったか?」

「このあたりの住民で、こんな新聞を取っている者がいるのか?」

等の質問をしたが、郵便配達人はこれを否定した。

(先述の通り、ミュンヘンの新聞が見つかった日付についてはもう少し前であった可能性もある以上、アンドレアスが郵便配達人にこういった質問をしたのも、31日より前だった可能性がある。)

 

同日午後、アンドレアスとヴィクトリアは、シュローベンハウゼンに買い物に出た。

立ち寄った金物店で、アンドレアスは、「家がどうも妙なことになっている」として、前の晩に畜舎内の牛が紐を解かれて走り回り、畜舎内が騒然としていたことや、

屋根裏から人が歩き回るような音がひっきりなしに聞こえて、心の休まる暇もなかったということ、懐中電灯を手に屋根裏に上がってみたが、何も見つけることができなかったということ、銃を持っているから怖くはないのだが・・・ということなどを話した。

 

またヴィクトリアも別の店で、「家が不気味なことになっている。誰かが忍び込んでいるみたい」として、父親と同じことを話したという。

ヴィクトリアについては、このシュローベンハウゼンでの買い物のときに、家の鍵がなくなっていることも話していたとする証言があるが、

アンドレアスについては、この時に鍵の紛失についても話していたという証言がなく、アンドレアスが鍵の件まで話していたかは不明。

ともあれ、このシュローベンハウゼンでの買い物姿が、二人の生前最後の目撃情報となった。

 

同日、ヴィクトリアの娘ツェツィーリア(当時7)は、通っていたヴァイトホーフェンの小学校で、授業中に居眠りをしたという。

なぜ居眠りをしたのか、教師が理由を尋ねると、ツェツィーリアは、前の晩(つまり3月30日の晩)に祖父のアンドレアスが母(つまりヴィクトリア)を叩いたこと、

それで、ヴィクトリアが家を飛び出してしまい、家族はランプを手に森を捜索したが見つからず、近くの川に身投げして死んでしまったかと思っていたところへ、明るくなったころに森の中で切り株に座っているヴィクトリアを見つけたのだ、ということを話した。

 

(仮に、アンドレアスが30日の晩ににヴィクトリアを叩いたのが事実だとすると、屋根裏から響いてくる足音に苛立ったアンドレアスが、ヴィクトリアに対して、「お前が男を引っ張り込んでいるんじゃないのか?」などと---ヴィクトリアにはシュリッテンバウアーとの過去もあったので、アンドレアスにはそういう疑心暗鬼は常に付きまとっていたのではないかと---八つ当たり気味に怒りを向け、暴力をふるったとかの状況も、考えられるかもしれないなと。)

 

同日午後4時半~5時ごろ、グルーバー家の新しいメイド、マリア・バウムガルトナーが、妹のフランツィスカに伴われてヒンターカイフェック農場に到着した。

二人の到着時、在宅していたのはアンドレアスの妻ツェツィーリアのみだったが、しばらく待つうちにヴィクトリアが帰宅した。

フランツィスカは、72歳ツェツィーリアやヴィクトリアと少し話をしたのち、午後6時ごろにマリアに別れを告げて、グルーバー家を後にした。(姉妹の最後の別れとなった)

https://ameblo.jp/maeba28/page-3.html

 

1922年3月31日夜~4月1日未明ヒンターカイフェック殺人事件発生

アンドレアス・グルーバー(当時63)、その妻ツェツィーリア・グルーバー(当時72)、グルーバー夫妻の娘ヴィクトリア・ガブリエル(当時35)、その娘ツェツィーリア・ガブリエル(当時7)と息子ヨーゼフ・ガブリエル(当時2)、その日にヒンターカイフェックに到着したばかりだったメイドのマリア・バウムガルトナー(当時44)が、何者かにより、つるはしその他の凶器で殺害された。