(まことに汝らに告ぐ、人もし此の山に”移りて海に入れ”と言ふとも、其の言ふところ必ず成るべしと信じて心に疑はずば、その如くなるべし。---新約聖書 マルコによる福音書11章23節)
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一点の疑いもなく信じ切れば、山でさえ自ら動いて海に入らせることもできるという。
かつてだいだらぼっち---常陸国では”ダイダラボウ”---が現在の水戸市大足町(みとしおおだらちょう)のあたりに住んでいたときのこと、
村の南側にあった高い山を力ずくで根こそぎにして、北方へ移してしまったことがあった。
村人たちの考えによると、作物があまりとれず村が貧困にあえいでいるのは、
その山が南側にいて日当たりの邪魔をしているからであり、
「あの山さえなければ・・・」
というのが、村人たちのかねてからの悲願であったところ、
ひごろ図体がでかいばかりで村人たちの迷惑になっているのではないか・・・と気に病んでいただいだらぼっちが、ここぞとばかり奮発して山を動かし、彼らの願いを叶えてあげた・・・
という形で後世に伝わってはいるものの、
この逸話を冒頭の聖句に照らし合わせてみれば、
「山よ、動け・・・」
という村人たちの願いがいつしか一点の疑いもない信念となり、
ついには、具体的な現象として現れた---本当に山が動いた---ある種の奇跡譚とみることができるかもしれず、
だとすると、「だいだらぼっち」とは、巨大な肉体を有する生身の存在ではなく、
それは具体的な現象を引き起こすほどに純化~強化された、人々の想念の巨大な集合体であったといえるのかもしれない・・・
などと妄想したりもしますが、どうなんでしょうか。
(だいだらぼっちもその腰を下ろしたという長野県塩尻市の”高ボッチ高原”から富士山を望む)
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さて前にも触れたのですが、この山が動いた話には続きがあり、
山の跡地が大きな窪地となって水がたまり、雨が降るたび決壊して洪水となり、
村人たちを悩ませるようになった・・・というものなのですが、
意地悪な見方をすればこれは、
みずから日当たりのよい場所に引っ越す等の努力を怠り、
自分らの貧しさの責任を、ただ目の前の山に押し付け、
「あれさえなければ」
と山を呪い、
いわば怨念によって山を亡き者にした村人たちに降りかかった、
人(山)を呪わば穴二つの結果であり教訓だった・・・
ともいえるのかもしれませんが、
(洪水被害に慌てただいだらぼっちが、指で地面を割いて排水路を造り、その下流に一つ湖を造っておいたのが千波湖といわれる)
呪いとか負の感情とか怨念とかによってターゲットに破壊的なダメージを与える、
ということになると、丑の刻参りを連想してしまうのですが、
---ちなみに千波湖のある千波町にも、丑の刻参りで有名なスポットがあるそうで、グーグルマップ的には36.353996, 140.461146---
常陸国にはなぜか、丑の刻参りと深い関連があるとも噂される、
あの陰陽道の安倍晴明(あべのせいめい)生誕地とされる場所があるようでした。
(ストリートビューより、茨城県筑西市猫島、陰陽師・安倍晴明生誕地の碑)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%B4%E6%98%8E
(安倍晴明ウィキ)
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常陸国だいだらぼっちから話が少し離れますが、
安倍晴明の生誕地がどこであるのか・・・
ということについては、主に四つの説があるようで、
・大阪説(大阪市阿倍野区): 『今昔物語』『泉州信田白狐伝』による(安倍晴明神社)
・奈良説(奈良県桜井市安倍山): 安倍文殊院の伝承などによる(安倍文殊院、御門神社)
・香川説(香川県高松市香南町): 『讃岐国大日記』『讃陽簪筆録』『西讃府志』による(冠纓神社)
・茨城説(茨城県筑西市猫島): 『ほき抄』『晴明伝記』による(宮山ふるさとふれあい公園)
ということらしく、茨城説がその論拠としているのは
『ほき抄』という慶長年間(1596~1615年頃)に成立したとされる書物であり、
それによると、晴明の母は和泉国信太の森の老狐であり、
この老狐が遊女に化けて旅をしていた途中、
常陸国・筑波山麓の猫島という土地(現・茨城県筑西市猫島)に3年間滞在し、
そこで安倍仲麻呂の子孫と出会って、共に暮らすようになり、安倍の童子(晴明)を産んだと。
(赤ピンの先あたりが、茨城説による晴明生誕の地、現在の筑西市猫島。)
(拡大図。先に掲載した晴明生誕地の碑は赤ピンの先。)
ところが母は、安倍の童子3歳の時、
狐の姿になっているところを童子に見られてしまい、
恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
という和歌を残して去っていくのですが、
その後、童子は成長して京に上り、
母が去り際に残した和歌の文句に従って「和泉なる信太の森」を訪ねてみると、
そこに社殿があり、老狐が現れて、「我こそ汝が母なれ」という言葉を告げ、
自らが信太の明神であることを示して姿を消した・・・とのことでした。
(大阪府和泉市葛の葉町、信太森葛葉稲荷神社)
信太森葛葉稲荷神社ウィキ(大阪府和泉市葛の葉町)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E3%81%AE%E8%91%89
葛の葉伝説ウィキ(安倍晴明の母親とされる白狐にまつわる伝承)
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ただこの茨城説の元ネタである
『ほき抄』自体がけっこう自由な想像にあふれている感じで、
もともとこれは、『三国相伝陰陽かん轄ほき内伝金烏玉兎集』
略して『ほき内伝』と呼ばれる陰陽道奥義書の注釈書で、
晴明の没後約600年を経てから成立したものであり、
その『ほき抄』によると、
『ほき内伝』のオリジナルは、まず文殊菩薩が天竺(てんじく)で作成し、
文殊菩薩はそれを弟子の伯道上人(中国の仙人)に授け、
伯道上人はそれを梁の武帝に伝え、
やがて日本から遣唐使としてやってきた吉備真備(きびのまきび)がそれを入手し、
吉備真備は日本に帰国後、それを安倍の童子すなわち安倍晴明に伝え(時代が合わない・・・)、
安倍晴明がそれを『ほき内伝』の形に編纂したであるとか、
あるいはまた、『ほき抄』の中には
「天から天蓋が下りてきて、安倍の童子を覆った」などの幻想的な描写があるとかで、
(天蓋想像図。この種のものが天から下りてきて晴明を覆ったという。)
嘘や誇張が多いというわけではないにしても、
おそらくは晴明に、より一層の神秘性を帯びさせる意図を含んだ、
ファンタジー寄りの書物だろうということは念頭に置いていいのかなと。
(もっとも安倍晴明については、ファンタジーぽい逸話を伝えているのはこの『ほき抄』に限らないので、この書---『ほき抄』---だけをことさらに「信ぴょう性に欠ける」とするのは当たらないと思いますが。)
だいだらぼっちからやや脱線しましたが、
下のウィキペディアなども、よければ参考にしていただければと。
三国相伝陰陽かん轄ほき内伝金烏玉兎集(『ほき内伝』)ウィキ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AE%8A%E8%8F%A9%E8%96%A9
文殊菩薩(もんじゅぼさつ)ウィキ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81_(%E5%8D%97%E6%9C%9D
梁 (南朝)と初代皇帝・武帝のウィキ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E7%9C%9F%E5%82%99
吉備真備(きびのまきび)ウィキ