(国造の神が起源とされることもある、伝説の大巨人だいだらぼっち。そのスーパーパワーは、多くの山々や河川・湖沼を創造したという)
(だいだらぼっちを現代に復活させるべく、日本各地の地面に巨大な鍵を差し入れていく謎の黒い6人衆・・・水木しげる・ゲゲゲの鬼太郎「ダイダラボッチ」より)
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一方こちらは、
現代の水戸で「ダイダラボウ(だいだらぼっち)」の歌を歌う、ご当地アイドルの5人衆。
正式名称「水戸ご当地アイドル(仮)」(みとごとうちあいどる かっこかり)
本来は6人衆とのことで可愛く、私的には「あり」だと思うのですが、
(水戸ご当地アイドル(仮)のウィキペディア)
いずれにしても、「だいだらぼっち」であるとか「ダイダラボウ」であるとか、
この巨人は「姿かたち」だけではなく
その「呼び名」も多岐に分かれているようで、ウィキペディアによると、
ダイダラボッチは、日本の各地で伝承される巨人である。
類似の名称が数多く存在する。
(中略)
柳田國男は『ダイダラ坊の足跡』(1927年(昭和2年)4月、中央公論社)で日本各地から集めたダイダラボッチ伝説を考察しており、ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に「法師」を付加した「大太郎法師」で、「一寸法師」の反対の意味であるとしている。
「でいだらぼっち」「だいらんぼう」「だいだらぼう」
「でいらんぼう」「だいらぼう」「デエダラボッチ」
「デイラボッチ」「デイラボッチャ」「デーラボッチャ」
「デエラボッチ」「デーラボッチ」「タイタンボウ」
「デエデエボウ」「デンデンボメ」「ダイトウボウシ」
「レイラボッチ」「ダダ星」「おおきいぼちゃぼちゃ」等、
様々な呼び名がある。
「大太法師(だいだらぼっち)」「大太郎坊(だいだらぼう)」とも表記し、
九州では「大人弥五郎(おおひとやごろう)」と呼ばれる。
とのことで、
水戸の小学生が夏休みの自由研究で、大串貝塚や
ダイダラボウ伝説のことを検索して、万一このブログが引っ掛かり、
なんら参考になるものが無かったとしたら寂しいので、
大串貝塚の資料館にある説明をベースに作られた、
各地に伝わる巨人(一部”鬼”)の名称地図を置いておきます。
(主に北海道、東北、一部新潟)
(主に関東甲信越、東海北陸、近畿)
(主に中四国、九州、沖縄)
実際はこのように現在の行政区画---都道府県---に合わせて
巨人の名を呼び分けていたわけではないので(当然ですが)、
あくまで参考程度ということで・・・。
同(大串貝塚)資料館の解説によると、
巨人の名称を全国的に見ると、ほぼ三つの地域に区分されます。
関東地方から近畿地方の東部までがダイダラボウ(大太郎坊)やダイダラボッチ(大太郎法師)、
西日本が主にオオヒト(大人)、
東北地方がオオヒトや八の太郎、手長足長などです。
とのことで、
上の図を見る限り、おおむねその通りかと。
「オオヒト」系が東北と中四国・九州(いわば両端)というのが興味深く、
こうなると、巨人伝説の震源地は近畿あたりか、と思われてくるのですが、
近江の国---現在の滋賀県あたり---には
「大太法師」(だいだらぼっち)が穴を掘ってその跡が琵琶湖となり、
そのとき掘り出された土を盛って富士山を作り、
途中でこぼれ落ちた土が琵琶湖~富士山の間にある山々となった・・・
という話が伝わっているそうです。
(赤富士と琵琶湖に沈む夕日)
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さてその「だいだらぼっち」という名称について、
民俗学者の柳田國男氏は
「だいだらぼっち」 = 「大太郎法師」
とした上で、これは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に
「法師」をくっつけた言葉で、「一寸法師」の反対の意味であると読み解き、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9C%8B%E7%94%B7
(柳田國男wiki)
その他にも、「たたら」という音との類似性その他を根拠に
たたら製鉄---製鉄師集団や製鉄神---との関連が指摘されたり、
(たたら製鉄の風景〈上〉と、足踏み式送風機---たたら---で火炎を煽る大巨人の想像図〈下〉)
さらには、ギリシア神話に出てくる物作りの名人「ダイダロス」や
同じくギリシア神話に登場する巨神族「タイタン(英語読み)」との関連も指摘され、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%AD%E3%82%B9
(ダイダロスwiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3
(タイタンwiki)
それぞれに興味深い推理が展開されてきたようなのですが、
そういった有名~有力説はひとまず置いて、
あえてトンデモ方向に話を振ってみるとすれば、
やはり、伴天連アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって日本に連れてこられ、
織田信長の家臣となった、モザンビーク出身の黒人侍・弥助は気になる存在ではないかと。
天正9年2月23日(1581年3月27日)、
ヴァリニャーノは黒人奴隷の弥助を伴い、信長に謁見したそうで、
信長の一代記『信長公記』における同日付記録には、
「切支丹国より、黒坊主参り候」
と記され、その「黒坊主」の年齢は26歳~27歳ほどで、
「十人力の剛力」「牛のように黒き身体」
と描写されているとのことでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98
(『信長公記』wiki)
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その弥助について伝えられている事実を並べてみると、
・出身はアフリカ・モザンビーク。
・イタリア人宣教師ヴァリニャーノがインドから来日する際、一緒に日本に連れてきた。
・天正9年2月23日(1581年3月27日)、ヴァリニャーノと共に京都で織田信長に謁見した。
・京都で黒人がいるということが評判となり、その姿を一目見ようと人々は南蛮寺(キリシタンの教会堂)に殺到し、なぜか投石が行われるなどして重傷者が出る騒ぎとなった。
・初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかと疑い、着物を脱がせて体を洗わせたところ、その肌は白くなるどころかより一層黒く光った。
・信長はヴァリニャーノからこの黒人を譲り受け、弥助と名付けて家臣とした。
・身の丈およそ六尺二分(182.4cm)。(当時の成人男性の平均身長は157cm程度ともいわれる)
・身分は下人や奉公人のそれではなく、扶持(ふち)もちの士分であった。
・信長は弥助に私宅を与えて帯刀を許し、そばに置いて道具持ちなどとしても使い、ゆくゆくは領地と城を与えて「殿(との、城主)」にしようとさえしていた。
・本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智軍の襲撃に遭遇した。
・本能寺での信長の死後、二条御所に行って明智軍を相手に奮戦するも、結局捕縛された。
・「動物であって何も知らず、日本人でもない」という光秀の判断により処刑は免れ、南蛮寺に送られた。
・その後の消息は不明。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8A%A9
(弥助wiki)
とのことなのですが、
弥助のその後の消息に関連するかもしれない情報として、
ルイス・フロイスの『日本史』の中に、本能寺の変の2年後(天正12年、1584年)、
肥前・島原半島で勃発した「沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)」において
有馬方の一員として、戦場で大砲を扱ったことのない日本人に代わって大砲を撃ちまくり、
敵の大軍を壊乱させた黒人が登場するわけです。
(沖田畷の戦い---鹿児島・尚古集成館蔵)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%94%B0%E7%95%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
(沖田畷の戦いwiki。戦いは有馬・島津連合軍 vs 龍造寺軍で行われた)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A0%B2
(大砲wiki)
この「有馬」とは、肥前・日野江藩の藩主・有馬晴信(キリシタン大名)のことで、
弥助を信長に譲り渡したイタリア人宣教師ヴァリニャーノは
京都で信長に謁見するよりも前にこの人物(有馬晴信)に会っていた、という事実があり、
とすれば、弥助と有馬晴信もまた、互いに顔見知りであったかもしれず、
本能寺の変によって主君を失った弥助が、
当時すでに改宗してキリシタンとなっていた肥前の有馬晴信のもとに身を寄せた可能性も、なくはないのではないか(世界ふしぎ発見)・・・と思うわけですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1
(有馬晴信wiki、天正15年〈1587年〉に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護したという)
ここで「肥前の国の黒人」と聞いて思い出されるのが
素直に見れば大柄な黒人さんを描いたかにも見える、
これらの絵だったりするのかなと。
(向かって左が「大入道」、右がその元ネタ「肥前の国・市坊主」、ともに江戸期の作)
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絵の中で、人々は腰を抜かしたり、這って逃げようとしたりしており、
恐るべき存在としての黒い巨人が描かれているように見えますが、
仮にフロイスのいう有馬方の黒人砲手が弥助であったとすれば、
6尺2分の黒い巨体にギョロリとした目、分厚い唇、
奇抜な髪形(おそらくは天然パンチパーマ)の弥助が
小高い丘から大砲を撃ちまくって敵の大軍を壊乱に陥れる様子---フロイスによれば
大名らはその黒人砲手の働きを「千人の兵にも勝る」と称賛した---
を実際に目の当たりにした者たちにとって、その姿は恐ろしいと同時に、
どことなく現実離れした印象を与えたかもしれず、とすると、
現場を目撃した肥前の国の誰かがその黒人砲手をもとにイメージした最初の図というのは、
こうした合戦場を舞台に黒巨人が襲い掛かる、といったものだったかもしれず、
(合戦の部分は関ケ原の合戦図なので、幟に描かれた紋についてはスルーでお願いします)
その「合戦場と黒巨人」のイメージが、
口頭で伝承されつつ、場所をかえ時代を経るにしたがって
この若干マイルドな味付けに変化していったのだとすれば、
今現在、「だいだらぼっちに近いイメージ」として知られている、この
「肥前の国 市坊主」に関しては、
沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)における有馬方の黒人砲手・弥助が
そのもともとのモチーフだったのかもしれない・・・
などと思ったりもします。
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この他、だいだらぼっちに関する奇説・珍説のたぐいは多く、
アメブロでみかけたある珍説の一つは、
「だいだらぼっち(大太法師)」の「大太」を「タイタ(Titor)」に、
あるいは、「だいだらぼっち(大太郎法師)」の「太郎」---伝統的な日本の男子名を、
英語の伝統的な男子名「ジョン(John)」に置き換えてみることで、
「大太法師」 = 「大太」 = 「タイター」
「大太郎法師」 = 「大太郎」 = 「大太 太郎」(の短縮形) = 「太郎 大太」 = 「ジョン・タイター」
と解し、「だいだらぼっち(大太法師、大太郎法師)」とは
2036年から偶然にも古代日本へのタイムトラベルに成功してしまった、
ニューヨークの黒人青年ジョン・タイター(身長2メートル超)であり、
時空移動した先の当局(大和政権?)から身柄を拘束され、名前(name)を問われた際に、
「タイタ」であるとか、彼としては気を利かせて日本風に「タイタ タロウ」とか答えたところ、
当時の人々の間で「なんとか村の大太」「なんとか村の大太郎坊」として人気者になってしまい、
身長7フィートに近いヒップホップ好きの黒人青年タイター(大太、大太郎)の実像は、
その噂が村境(むらざかい)を超え、時代を経るにしたがってインフレ化していき、やがて、
山のような大巨人「だいだらぼっち(大太法師、大太郎法師)」として
独特のグルーヴ感を持つその名称とともに伝説化していった・・・
という風に読み解いたりもするのであり、
さすがにこれは現実味が薄いとは思うものの、
空想(妄想?)科学的には「あり」、
ということになるのでしょうか。
(古代日本にタイムトラベルしたニューヨークの黒人ヒップホッパー、ジョン・タイター〈想像図〉。彼もまただいだらぼっちのモデルの一人だったのだろうか。)