(殺害現場となった”野山”へと通じる道「光風美竹通り」2014年4月の画像)
さてこのところ長らく続けてきたこの京都長岡京奥海印寺の事件についても、そろそろこのあたりで、一区切り入れようかなと思います。
そこで、「その1」~「その8」までをまとめると、自分の中ではどういう筋書きになるのか・・・というところを以下ダラダラと書き記させていただくとすると、
まず1979年5月23日(水)の午前10時過ぎ、いずみやで生鮮食料品を並べる業務(朝6時~10時)を終えたAさんとMさんは、同店で弁当を購入し、その頃まだ宅地造成中だった「河陽が丘」裏の里山(通称”野山”)へワラビ採りに出かけた。
「野山」のふもとの寺院「寂照院」前の畑に自転車をとめ、登山道から入山したのが午前11時ごろだった。(複数人による目撃あり)
後の捜査で、二人のナップサックから「直径10センチほどのワラビの束」「空になった弁当箱」が見つかったことからすれば、入山して目的地へ到着後、しばらくは何事もなく予定通りにワラビを採り、その後、遺体発見現場よりも少し下手にある視界の開けた場所に二人腰を下ろし、持参した弁当を食べながら休んだものと思われた。
天気は晴れ、気温28度。汗ばむほどの陽気の中でワラビは大漁、おなか一杯の、幸せすぎる昼下がりだったかと思う。
弁当を食べ終えて空箱をナップサックにしまい、「もう少し採ろうか」ということで、立ち上がったのがおそらく午後1時過ぎだった。
あるいはさらにワラビを採ろうとしたのではなく、単に帰宅の途に就こうとしたのかもしれないが、下手(しもて)から二人の男が薄ら笑いを浮かべながら近づいてきたのは、その時だったと思う。
一人は右手に包丁を持ち、もう一人は手ぶらではあったものの、その拳には明らかにそれと分かる空手ダコが見て取れた。
この二人は、1979年5月31日(木)の中日新聞夕刊で報じられたあの、地元の不良仲間の間でも”空手の強い暴れん坊”として名を馳せている粗暴な男と、その連れの二人組だったのだろうか?・・・ということについては、「決してそうではなかったのだろう」と思う。
なにしろ警察がこの二人を捜査線上から外している事実があった(棒)。
とすれば二人は何者だったのか、というと、実は先の二人組以外にも、もう一組、怪しい二人組が目撃されていたのだった。
それは「その1」でも紹介した、
「年齢25~30歳くらい、白いシャツでジーパン様のズボン、手荷物なしという、ハイカーには見えない男二人組が、被害主婦二人の入山直後(約10分後)に山入りするのを、近くの竹やぶで作業をしていた山林所有者が目撃していた。目撃時刻は5月23日の午前11時半ごろ。事件後、この二人から捜査協力の申し出などもなく、正体は不明のまま」
という、この二人組のことだった。
「手荷物はなかった」とあるが、それはきっと目撃者の観察不足で、ポケットには大型のビニール袋を入れ、おそらくは目撃者からは死角になるように腕の内側に包丁を沿わせながら、何食わぬ顔をして「野山」を登っていったのだった。
「正体不明」とあるがこれも怪しい。
きっと目撃者は、それまでもこの二人組を目撃したことがあったのであり、その日も、
「またあの二人か。あいつら、何しに入っているのか・・・」
と怪訝な思いで見ていたものと想像され、ただしかし、何となく恐ろしくもあり、声を掛けられずにいたのだった。
男らは、この「正体不明」と(表向き)報じられた二人組であったろうと想像する。
後に発見される遺体の状況---合計80発もの殴打に肝臓破裂、肋骨9本骨折---などからして、男の内の一人は打撃系の格闘技、おそらくは空手の使い手だったことが想像され、さらにこれほどの暴虐な事件を起こしたことからすれば、おそらくは、すでに地元の不良仲間の間でも名を馳せていた粗暴な男であったのかもしれない。
もう一人は、おそらく喧嘩の実力はないものの、親の持つ金やコネ、威力などを笠に着た鼻持ちならないながらもアンタッチャブルな存在であったかもしれず、いわば虎の威を借るスネ夫がジャイアンとつるむように、この男もまた空手自慢の粗暴な男とつるんでいたのかもしれなかった。
さらに、遺体発見時にMさんの遺体に突き刺さったままになっていた文化包丁に残された擦り傷(刃に対して垂直方向に多数)からすれば、
(イメージ図。文化包丁ぽくないですが・・・)
おそらくその包丁は、何かの芽や茎を地上すれすれで切り取るべく小石混じりの土に水平方向に突っ込む~擦れあうような使い方をされていたものと思われ、だとすればAさんらの前に現れたこの男らはおそらく、その当時現場に横行していたタケノコ泥棒(地上部分をカットして持ち去る手口)でもあったと思われた。
現場ではその当時、強姦事件も発生していたというから、男らには「野山」での強姦の前歴さえあったかもしれず、男らにとってこの「野山」とはタケノコ泥棒のついでに女も犯すという、いわば(言葉は悪いが)一石二鳥の狩り場であったのかもしれない。
三十路も近い男らが平日から仕事もせず、ぶらぶらと山でタケノコ泥棒とは、何がどうなっているのか、自分らで湯がいて食べるためにやっていたとも思えない。
あるいは、「遊んでるくらいならタケノコでも盗ってこい!」と親方にでも命じられていたのか、それとも地元の親分に献上してご機嫌取りでもしていたのか、そのあたりはわからないが、ともかくも二人はAさんらに近づくといきなりその腕を掴み、Aさんの面前に包丁をかざして、
「いうこと聞け」
と言ったのだった。
Aさんらは声を上げるどころではなく、むしろ、体も思考も凍り付いてしまったと思う。
「来い」
包丁を突きつけていた男(以下、S)は空いた左手でAさんの右腕を掴み、そして、空手ダコのほう(以下、K)は右手でMさんを掴み、その場所から少し上方にある獣道の入り口を目指して歩き始めた。
タケノコ泥棒の常習だった二人にとって、このあたりは、勝手知ったる我が家の庭のようなものだった。
獣道に入り、雑木や蔦(ツタ)の生い茂る中を20~30メートル進んだ先に、小さく開けた場所があった。
そこが犯行現場となった。
「黙っていうことを聞けば、生かして帰してやる」
そんな言葉とともに、SはAさんを押し倒したのだろうか。
一方のKは、怯えのあまりすでに様子のおかしいMさんを地に引きずり倒した。
「不用意に刺激すると、どういうことになるかわからない・・・」
そういう思慮が、Aさんには本能的に働いていたのかもしれない。
身を硬くし、黙ってその恐怖と屈辱に耐えたのだった。
Sも、相手が従順でありさえすれば、それ以上の何かを行うつもりはなかったと思う。
無抵抗のAさんを相手に、あっという間に事を終えてしまった。
男は素早くズボンを上げると、再びAさんに包丁を突きつけ、服を着るように促した。
命じられるままにAさんは立ち上がり、自分で身づくろいをした。
遺体発見時、体内に精液はあるものの、着衣はあたかも自分で身づくろいしたかのように乱れが無かったというAさんの状況は、このいきさつ---想像だが---によったかもしれない。
事を終えたSはAさんの腕を掴み、「まだか?」とばかり、Kのほうに視線を移した。
Mさんは服を脱がされる際に激しく抵抗したらしく、下着は引き裂かれ、パンストは脚に絡みついていた。
下半身裸のMさんを、Kはしかし強姦するでもなく、異物を使って凌辱を加えていた。
怯えて泣くMさんに苛立ち、時に殴り付けたりした。
Mさんは、初めてのワラビ採りだったという。
一方のAさんは、その年だけでも7回目のベテランだった。
共にワラビ採りに来た10歳以上も年下のMさんが、愚劣極まりない凌辱を加えられ、悲鳴を上げるごとに頬や頭に打擲(ちょうちゃく)を加えられる光景は、Aさんにとって耐え難いものだったと思う。
しかもKの股間に目をやると、それはまったく立っていなかった。
あまつさえそれは非常に小さかったかもしれない。
Aさんはこみ上げる怒りを抑えきれなくなり、筆者の勝手な妄想ではおそらく、
「あんた! 殴るのは止しなさい!!」
こう叫んだかもしれなかった。
さらに妄想をお許しいただくとすれば、それに続けて、
「タケノコ泥棒が女犯して泣かして、しょーもない男や!」
「なんやの立ちもせんと、インポテンツが無理せんとき!」
「それにちぃさいな~、男もちぃさいアソコもちぃさい!」
「ちぃさくて許されんの、いずみやのウィンナーだけや!」
京風のイントネーションで一気にまくし立てたのだった。
「おい!」
Aさんを掴むSの腕に力が入った。
が、内心では噴き出しそうになるのを堪えていた。
Aさんにしてみれば---あくまで筆者の妄想だが---余裕の嘲笑気分で言ったのではなく、Mさんへの凌辱~暴力にこみ上げる怒りを抑えきれず、思わず罵声を浴びせかけた形だった。
理不尽極まりないこの状況を思えば、それは言い過ぎなどころかむしろ言い足りないくらいだったが、Kはそれで恥じ入るたぐいの男ではなかった。
「ああ?」
昂然と顔を上げAさんを睨み据えたその目には、すでにありありと殺意が籠っていたのだった。
「おい、その女こっち連れてこい」
Kはこれまで押さえつけていたMさんの見張りをSに任せると、空手ダコのある手でAさんの胸ぐらをつかみ、引き寄せた。
男が何かのことで女に激高し、突発的に殺害を試みる場合、通常はとびかかって首を絞めるか、何かで殴り付けて終わりと思われたが、この男は違った。
拳と脚で、徹底的に打撃を加えたのである。
まさにそこにこそ、この事件の犯人の何事かが表れていると思われた。
おそらくは学生時代から勉強もできず、運動でもさして目立つ存在ではなかったであろうKにとって、
「空手ができる」「空手が強い」
ということは、自己を自己たらしめていた唯一のアイデンティティだったのであり、さらに空手の世界でも半端者だったKにとっては、街で素人を殴りつけ、不良仲間の間で
「あいつは強い」
と噂される時こそ、自己の存在が認められた気がする唯一の瞬間だったと思われた。
そんなKにとっては、男としての自己の存在を侮辱し否定した相手をいたぶるには---例えば刃物にこだわりを持つ男ならとっておきの刃物で切り刻もうとするであろう様に、あるいは、寝技専門なら得意の絞め技でいたぶり、ムエタイやテコンドーなら蹴りまくるであろう様に---まさにその自己の誇りとするところの拳(こぶし)と脚によってする必要があることを、無意識的にも感じていたかもしれなかった。
「内心で舎弟扱いしているSの前で、メンツをつぶされた」
その思いもあったかもしれない。
それは今後事あるごとにSに思い出されては内心で嘲笑され、侮りを招きかねない事態だった。
この事態をリセットするためには、荒ぶる暴君としての自分をSに見せつけ、メンツを潰した相手を拳と脚で完膚なきまでに破壊して、再びSのうちに自らに対する畏怖を回復してみせる以外にない・・・Kにはそう感じられたのかもしれない。
この事件の謎の一つ、女性相手にしてはあまりにも度の過ぎたと思われる暴行の、これがきっかけだったかもしれなかった。
Aさんは30発もの殴打を受けて肝臓破裂、肋骨9本を骨折の末、扼殺された。
「もとはと言えばお前だ」
「お前が大人しくしないのが悪いんだ」
Kの怒りはMさんにも向けられた。
Mさんも、全身に50ヶ所の殴打を受けた末に扼殺を試みられたが失敗したらしく、結局、刃物(文化包丁)によって刺殺された。
異物により凌辱を加えられたような形跡はあるものの、体内から精液は検出されなかった・・・というMさんの遺体の状況は、上のような経緯によったかもしれない。
刺殺の際(あるいは殴打の際にも?)おそらくはKの連れSの協力があったのではないか、ということは、一つ前の記事で推測したとおりだった。
「共犯関係を強固にさせる」というKの自己保身的な本能が、そこには働いていたかもしれない。
二人の殺害は、午後1時半~2時ごろのことだったと思われる。
男らは急ぎ下山した。
「野山」には登山道に沿って谷川が流れている部分があるが、男らは下山の際、この谷川に降りて、手に付いた血を洗い流したかもしれない。
登山口付近で作業をしていた山林所有者やふもとの住民には、その時刻(午後2時~)に、泡食って下山する二人の姿が目撃されたものと思うが、もちろんこれは筆者の妄想に過ぎない。
----------
その後の流れは「その1」に詳しい。
いちおうここでも少し触れさせていただくと、23日夜に、帰らぬ妻を心配したMさんの夫が「野山」を捜索したが見つからず。
24日の朝から、Aさんの夫(このとき宿直明けだった)も捜索に加わったが、見つからず。
同24日の14時50分、向日町署に捜索願を提出、向日町署は直ちに署員30人を投入して捜索開始。
結果、登山道入り口近くにある「寂照院」前の畑に二人の自転車を発見。
また、「寂照院」近くの宅地造成現場ガードマンから「23日の午前11時頃に、二人が入山していくのを見た」という目撃情報を得た。
この日の捜索は深夜にまで及んだが、二人の行方はつかめなかった。
翌25日、午前9時から捜索開始。
向日町署員やAさんとMさんの家族~同僚、地元消防団など、計120人+警察犬3頭が捜索に参加。
同日午前10時30分頃、「野山」の山頂付近雑木林で、獣道行き止まりの小さく開けた場所の横にある45度近い斜面で警察犬が反応、Aさんの遺体発見。
続いて、Aさんの遺体発見場所から斜面を約10メートル程度登ったところ、獣道行き止まりの小さく開けた場所で、Mさんの遺体を発見。
2遺体の凄惨な様子から、現地は天地をひっくり返したような騒ぎになったことは想像に難くない。
----------
遺体が発見されたその日(5月25日)のうちに捜査本部が立った。
幾人かの不審者がリストアップされる中、おそらくは「野山」の山林所有者、ふもと住民への聞き込みなどによって、KとSについては早々に---おそらくは25~26日中、遅くとも27日までには---捜査線上に浮かんだものと想像する。
常日頃から「空手の強い粗暴な男」として、不良仲間のみならず、おそらくは警察関係者の間でもその名が知れていたであろうKらが、まさに犯行直後と思われる14時ごろに急ぎ下山してきたという目撃証言に、捜査関係者らは早くもある確信を抱くと同時に、
「これは難しいことになるかもしれない・・・」
と眉をひそめたのである。
眉をひそめた理由が何だったのか、
それは例えば、「その7」で挙げたような理由すなわち、
「犯人と思われる者のバック(親族その他近しい位置)に、面倒くさい政治家や宗教団体、外国政府、圧力(人権)団体、警察のお偉方その他、手を付けにくい人々が控えている」
とか、あるいは、
「ある者(たち)について、限りなく黒(クロ)という心証はあるのだが、証拠不十分のため、任意で聴取しても成果(逮捕・起訴・有罪という流れ)が見込めない」
とかであったのかもしれず、あるいは、その両方のコンボであったかもしれなかった。すなわち、
「凶器の文化包丁(無銘)からは指紋が検出されておらず、結局は、自白頼みの捜査にならざるを得ないが、その自白を、果たしてこの二人から引き出せるのか・・・」
という面倒くさい事実がまずあり、それに加えて、
「この二人(のうちの一人)の親族関係~バックが相当ややこしく、自白を引き出すにしても、果たしてそこまで厳しい取り調べを行い得るのか・・・」
ということだったのかもしれない。
真相はどうだったのか、例えば、当時の京都の副知事さんあたりにでも訊けば、もしかすると心当たりの方面を教えてくれるかもしれないが、いずれにしても、
「あの二人には、そう厳しくは突っ込めないぞ・・・」
捜査関係者らは頭を抱えてしまったのである。
「あの二人はどうなっている?」
「自白は、まだ得られないのか?」
本部長や部長の叱責する姿が脳裏に浮かんだ。
「あの二人、まだ野放しやて」
「警察アホや。税金泥棒もええとこや」
長岡京市民らの陰口も聞こえてきそうだった。
「どうにか、ならないものか・・・」
悩んだ末に一計を案じた。
すなわち、重大な目撃証言のあるKとS(二人はこの筋書きにおける空想上の存在だが)については、やはりどうしても任意での聴取はせざるを得ないとして、そこで自白が得られればそれでよし、仮に自白が得られなければ、あまり厳しく追及せず、某方面から苦情という名の圧力が掛けられないうちに解放しよう、ということだった。
その筋書きを円滑に遂行するために、必要なものがあった。
それは上司や世間の人々をして
「二人の解放、やむなし」
と思わせるための口実、雰囲気(世論)作りだったのであり、その役割を担う「物証」としてあの
「この男の人わるい人」
という「単独犯」を示唆する「Aさん直筆」のメモを急ぎ作成しておこう・・・(ついでに、現場に鉛筆の芯も転がしておこう)
ということなのだった。
メモは実際に作成され、その存在は、早くも5月28日ごろからメディアを通じて世間に流布された。
その後、男らは任意で事情聴取を受けたものと想像された。
しかし、事件が解決しなかったことからも明らかな通り、自白はやはり得られず、男らは当初の予定通り(?)捜査線上から外されたのだと思う。
おそらくそれと同じ頃か、その後の捜索で、遺体発見現場付近の土砂から
「鉛筆の芯(先端部分、長さ約1センチ)」
が、目の細かいふるいに引っかかって姿を現したことと思う。
その後、捜査本部は「単独犯」という見立てに舵を切っていったらしかった。
事件発生の3か月後には、「犯人に最も近い男」としてこの
得体の知れない男の似顔絵を作成~公開している。
もちろん、これが解決に結びつくことはなく、捜査は雲をつかむような話となってしまった。
「犯行直後と思われる5月23日の14時ごろ、空手を操り粗暴な振る舞いで不良仲間の間にも名を馳せている男が、その連れとともに”野山”から急ぎ下山してきたのを、山林所有者やふもとの住民に目撃されているはずだ・・・」
というのがここでの妄想上の設定だったが、その目撃証言は、その11年後に起きた「足利事件」で
「ルパン似の男」
という重大な目撃証言が、たった一つの「物証」---当時まだ精度の低かったDNA鑑定---によって掻き消されてしまったように、「単独犯」を仄(ほの)めかすたった3行の不気味なメモによって掻き消されてしまった形と思われた。
捜査は暗礁に乗り上げ、1994年5月23日に時効を迎えた。
----------
事件に関する数少ない情報を調べてみた上で、自分的に思い浮かんだ筋書きは、結局のところ、上に書いたようなものとなりました。
しかし、特に登場人物の設定、その言動、心理については言うまでもなく、フィクション、妄想であるということはご理解の上で目を通していただければと。
自分的に気になる事件としては、このワラビ採りが最後だったと思います。
凄惨な事件だけに、かけ離れた犯人像にならなければいいな、と思いながら書いてみましたが、果たしてどうだったでしょうか。
(読みにくい長文最後までお付き合いいただき、有り難うございました。)



