京都長岡京ワラビ採り主婦殺人事件・その1 | 雑感

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---------- 11月14日追記↓ ----------



長岡京ワラビ採り殺人事件1_1

(画像向かってやや左下、赤ピンの先が京都府長岡京市。大阪府との境に位置し、美しい竹林で有名)


ここで遅ればせながら、事件に関する少し詳し目の情報を並べてみたい。

(生々しい記述もあるので、そういうのが苦手な方、気分を害される方は、閲覧をご遠慮ください。)


1. 事件発生年月日と時刻


1979年5月23日(水曜日)の正午過ぎ~14時ごろ。

(時刻は犯行状況からの推定。ちなみに、当日の天気は「晴れ」。正午~14時ごろの外気温28度程度)


2. 事件発生場所

 

京都府長岡京市「河陽が丘」の北北西に隣接する標高約230メートル里山の山頂付近(そのあたりは雑木林)。


この里山のことを「通称・野山」と記述する資料が多い一方で、(現場は)「通称・西山梅林」としている資料もある。

ヤフーの地図で「河陽が丘」の西側~北側山林一帯を拡大してみると、4カ所に「野山」という名称が付いている。

こうなると、「野山」とは一個の「山」の名称なのか、それとも、広範囲な「地区」の名称であるのか、あるいは、複数の山々の一つ一つをどれもまとめて「野山」と称しているのか、現場を知らない自分は混乱してしまった(ヤフー地図では、殺害現場とおぼしき場所にも「野山」という表記があった)。


一方で、グーグルの地図では「奥海印寺野山」と打ち込めばそのエリアが表示されるので、それを見る限りでは、「野山」という「地区」が現存しているかのようだが、真偽はわからない。


よくわからないので、ここは通説にしたがい、


「殺害現場」 = 「河陽が丘の北北西に隣接する標高約230メートル里山の頂上付近にある雑木林(通称・西山梅林?)」 = 「通称・野山」


ということで記述していきたい。


この「野山」は人々がピクニック~山菜採りによく訪れる山ではあったが、犯罪と無縁というわけではなく、タケノコ泥棒が横行し、事件発生前からレイプ事件なども起きていたという。


3. 被害者


長岡京市のパート主婦、Aさん(当時43)と、Mさん(当時31)。


二人のパート先は、阪急京都線「長岡天神駅」から南へ約200メートルの場所に位置するスーパー「いずみや」(現”イズミヤ”)。

開店前の午前6時~午前10時まで、生鮮食料品を売り場に並べる仕事に携わっていた。


長岡京ワラビ採り殺人事件1_3

(スーパー「イズミヤ」の現在。二人がパートをしていた当時は「いずみや」だった。)


4. その他、当日の状況


上記AさんとMさんは、当日(1979年5月23日)の午前6時~午前10時まで、「いずみや」でいつも通り業務を行った。


午前10時過ぎに同店で弁当を購入し、そのまま二人して自転車を連ね、河陽が丘の北北西に隣接する里山(通称「野山」)に、ワラビ採りに出かけた。

(いずみやから野山への距離は、直線で約2~2.5キロ)。


Aさんはその年だけでも7回目のワラビ採り、Mさんはワラビ採りは初めての初心者だった。

(Mさんは、ワラビ採り終了後の午後3時半ごろには、保育所に子供を迎えに行くことになっていた。)


二人は、「野山」のふもとにある寺院「寂照院」前の畑に自転車をとめ、午前11時ごろに入山した。

(入山する二人の姿を、寂照院近くの宅地造成工事現場のガードマンや、登山道入り口近くの竹林で作業をしていた夫婦が目撃していた。)


入山後、ある程度ワラビを採ってリュックに詰め、昼食の弁当を食べたのちに危難に遭ったと推測されている。


長岡京ワラビ採り殺人事件1_2

(長岡京市内の関連現場付近を拡大で。二人は寂照院前の畑に自転車をとめ入山した。赤丸のあたりが遺体発見現場と推測される〈あくまでの”あたり”。”そのへん”程度の認識でお願いします〉。ピンクの道はその距離約1.5キロ、ただし、二人がこのルートを辿ったかどうかは不明。)


長岡京ワラビ採り殺人事件1_4

(少し広い範囲を、上から見てみる。赤丸はあくまで大雑把な遺体発見現場とお考え下さい。イズミヤからまでは、直線で約2.5キロ。二人は寂照院まではチャリで向かった。)


ここで古い画像を。


長岡京ワラビ採り殺人事件1975年

(1975年1月の長岡京市空撮画像。白線で囲んだ部分、後の「河陽が丘2」のあたりは、まだ山林のままとなっている。赤丸は例によって、遺体発見現場と推測される一帯。”このあたり”程度で。)


上の画像の約4年後、1979年5月23日に事件は起きた。

その3年後、1982年に空撮されたのが下の画像。


長岡京ワラビ採り殺人事件1982年

(1982年10月撮影。「河陽が丘2」の部分の山林が切り開かれ、造成が進みつつあるのが見て取れる。1979年の事件発生当時も、この画像のような感じで「河陽が丘2」あたりの山肌を切り開きつつあったものと推測される。)


長岡京ワラビ採り殺人事件1_7

(そして現在。「河陽が丘2」には住宅が立ち並び、西側には京都縦貫自動車道も開通している。それにしても、山の手入れというのか、山林の活用は昔のほうが積極的になされていたのだろうか。75年や82年頃のほうが、山に人の手が多く加わっていることが、画像からは窺える。)


5. 捜索の状況


5月23日夜、帰宅しない妻を心配し、Mさんの夫が暗い中、一人で「野山」を捜索、見つからず。


翌24日の朝から、Aさんの夫(このとき宿直明けだった)も捜索に加わったが、見つからず。

同24日の14時50分、向日町署に捜索願を提出。

向日町署は直ちに署員30人を投入して捜索開始。

結果、登山道入り口近くにある「寂照院」前の畑に、二人の自転車を発見。

また「寂照院」近くの宅地造成現場ガードマンから、「23日の午前11時頃に、二人が入山していくのを見た」という目撃情報を得た。

その日、捜索は深夜にまで及ぶも、二人の行方はつかめず。


翌25日、午前9時から捜索開始。

向日町署員や行方不明者の家族~同僚、地元消防団など、計120人+警察犬3頭が捜索に参加。

同日午前10時30分頃、「野山」の山頂付近雑木林にて、獣道行き止まりの小さく開けた場所の横にある45度近い斜面で警察犬が反応、Aさんの遺体発見。

次に、Aさんの遺体発見場所から斜面を約10メートル程度登ったところ、獣道行き止まりの小さく開けた場所で、Mさんの遺体を発見。


6. 遺体の状況


 Aさんの遺体は、「野山」山頂付近雑木林の45度近い斜面で、頭を下方(谷側)に向け、仰向けの状態で倒れていた。

(「その場所から斜面を登ったところにある、獣道行き止まりの小さく開けた場所から突き落とされたのか」との推測が、当時の週刊誌にはある)

服装はスポーツシャツにジーパン。シャツのボタンは一部ちぎれ(ボタンは現場に落ちていた)、靴は脱げていたが、ジーパンはきちんとはいており、全体としては、あたかも自分で身づくろいしたかのように整った様子だった。

Aさんの遺体には、手で首を絞められた痕がある他、手拳で殴打され、あるいは、蹴り上げられたような30カ所にも及ぶ皮下出血の痕があり、あばら骨は9本折られ、肝臓が破裂していた。

(直接の死因は、両手で首を絞められたことによる窒息死)。

遺体そばには、所持金2千円が入ったナップサックが放置されていた。

Aさんの体内からは、犯人のものと思われる精液が検出された。(血液型はAまたはO型)


 一方、Mさんの遺体は、Aさんの遺体が見つかった斜面を数メートル登った場所にある、獣道行き止まりの小さく開けた場所で見つかった。

うつ伏せの状態で、ナップサックは背負ったまま。

下半身は裸、パンストと下着が脚に絡まりついていた。

(「下着が引き裂かれ、ジーパンや靴が遺体近くに散乱していた」とする資料もある。要するに、着衣の様子からは激しい抵抗の痕跡が窺えた、ということかと想像する。)

発見者が彼女の体を起こすと、左胸に文化包丁が突き刺さったままになっていた。

包丁は、彼女のポロシャツをまくり上げた上で、(シャツ越しではなく)素肌に直接刺さっていた。

それはあたかも、正確に心臓の位置を刺し貫くため、ポロシャツをまくり上げ、直に切っ先を素肌に当てたかのように見えたという。

Mさんの遺体にも、手で首を絞められた痕があり、また、手拳~蹴りなどによると思われる50カ所にも及ぶ皮下出血の痕があった。

(直接の死因は、刃物で刺されたことによる失血死)。

左胸部に刺さったままの包丁は、左第四肋骨を切断し、心臓から肺にまで到達していた。

Mさんの体内からは、精液は検出されず。

ただし、犯人のものと思われる体毛が付着しており、鑑定の結果、その血液型はO型と判明。

(Mさんについて、「膣壁に剥離があり、犯人が異物を用いるなどして凌辱を加えたと推定される」との、当時週刊誌記事がある。)


 二人の遺体について、「アキレス腱が切られていた」ということが語られることがある。

これについては、自分自身がその情報のソースを確認できていないため、このブログでは「アキレス腱切断」について事実であるとの前提には立たず、かと言って、虚偽かどうかもわからないので、あえて触れずに話を進めます。

(個人的には、「新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件」との混同から来た勘違いではないか、と思っていますが・・・)


7. その他


 Mさんの左胸部に突き刺さっていた文化包丁は、ステンレス製、全長30センチ、刃渡り18センチ、最大幅4.5センチ、柄は茶色の木製。

岐阜県関市で製造された約7万本のうちの1本であることが判明。

事件の数年前に製造中止になっていた型で、メーカーの刻印はなく、無銘のままアウトレット品として流通させられたものと推測された。


包丁からは、指紋は検出されず。

流通ルートの解明に期待がかけられたが、そこから犯人に肉薄できたという情報はない。


 AさんとMさんのナップサックからは、「直径10センチほどのワラビの束」「空になった弁当箱」が見つかった。


 胃の内容物、米粒、ノリなどの消化状態から、食後1時間以内に殺害されたと見られ、犯行時刻はおおむね午後1時半~2時の間と推測された。


 Aさんのジーパンの右ポケットの底から、しわくちゃになった紙片が発見された。

その紙片は、二人のパート先「いずみや(現・イズミヤ)」のレシートであり、その裏面には、


「オワレている たすけて下さい この男の人わるい人」


と読み取れる(助けを求める?)、メッセージのようなものが鉛筆書きされていた。

筆跡鑑定の結果、「Aさんの筆跡」と鑑定されたという。


長岡京ワラビ採り殺人事件1_8
(いわゆる問題のメモ。Aさんのポケットから発見された。)


このメモを書くにあたって使用したはずの鉛筆が見つからなかったため、警察は、遺体発見現場付近の表層土砂をふるいにかけ、これを探した。


結果、鉛筆本体は見つからなかったが、Mさんの遺体発見現場から南に約17メートルの地点で、鉛筆の芯の部分(長さ約1センチ)を発見した。

(この芯について、間違いなくメモを書かれるのに使用されたものだという情報は、検索では確認できなかった。)


その後、さしたる進展も見られないまま、1994年5月24日に公訴時効が成立。


 当時寄せられた現場付近の「不審者情報」については、下の「11月11日の追記」を参照ください。



---------- 11月11日追記↓ ----------



長岡京ワラビ採り殺人事件002

(殺害現場となった里山へと通じる道「光風美竹通り」・・・2014年4月の画像)


この事件に関して寄せられた不審者情報は、以下の通り。



1. 「奥さん、ワラビ、採れますか?」の包丁男


事件の前年同時期に、一人の主婦が殺害現場から西南へ約300メートルの雑木林でワラビを採っていたところ、ふと気づくと、目の前に長さ30センチほどの包丁を持った男が立っており、「奥さん、ワラビ、採れますか?」と声をかけてきた。

主婦は驚き、70~80メートル離れた場所でワラビを採っていた夫と子供のところへ走って逃げたという。

男の年齢は40~45歳くらい、身長約170センチ、ねずみ色上下の作業着姿。


2. 事件の数年前から現場一帯の竹林で横行していたタケノコ泥棒


タケノコを土中から掘り起こすのではなく、地上に出ている部分を刃物で切り取り持ち去るという手口。

現場一帯の竹林には、鋭利な刃物で切り取られたとみられるタケノコの痕が多数みられたという。

捜査員が入山するようになったからか、事件の翌春には、タケノコ泥棒の被害はぷつりと止んだ。


3. 暴走族


「最近、現場付近の山林内の道路を暴走族がたびたび走り回っており、捜査本部は、(被害主婦らは)暴走族の不良グループに襲われた可能性もあると見ている」(当時の新聞記事より)


4. 事件の6日前に現場付近でワラビを採っていた主婦に声を掛けた挙動不審な中年男


年齢は40~45歳くらい、スポーツシャツにズボンという軽装、サラリーマンタイプ。

これとよく似た人物を目撃したという情報は、全部で3件寄せられた。

目撃情報は「水曜日」「木曜日」に集中しており、これは、被害女性2人が襲われた「水曜日」とも一致。

男の似顔絵は作成され、事件3か月後に一般公開された(下の画像)。

「主婦に声を掛けた」とあるが、「採れますか?」と声を掛けたとのことで、その人相は、約1年前に「奥さん、ワラビ、採れますか?」と声を掛けた包丁男と似ていた、との情報がある。


長岡京ワラビ採り殺人事件似顔絵


5. 地元(長岡京)の不良二人組


建築手伝いの、28歳と26歳。

犯行時間帯の直後と思われる5月23日14時頃、現場の山から急ぎ足で下りてきたのを地元の人に目撃され、警察から「重要参考人」として取り調べを受けた。

二人のうち一人は空手の心得があり、性格は粗暴で度々喧嘩を売るなど、不良仲間の間でも知られた存在だった。

ネット上の一部資料では、この空手の心得のある人物を「少年」とするものもあるが、その他資料では、この二人組を「20代後半」---「26歳と28歳」又は「28歳と28歳」---とするものもある。(個人的には、「20代後半の二人組」が正解ではないかと想像)

また、二人のうちどちらか不明ながら(おそらく空手のほうだと想像するが)、緑色の自転車を所有し、たびたび殺害現場となった里山への道を走っていたのを目撃されていた。

当時の新聞記事↓


 中日新聞1979年5月31日(木)夕刊
「建設作業員の二人に疑惑 ワラビ採り主婦殺人事件・・・・

京都府長岡京市の山中で、ワラビ採りの二人の主婦が殺害された事件で、京都府警向日町署の捜査本部は、当日の行動に不審の多い変質者など六人を有力参考人として身辺を洗っていたが、三十一日までにさらに二人に絞った。

二人は同市の建設作業員A(28)とB(28)で不良グループ。

これまでの調べによると、二人は事件当日の二十三日昼過ぎ、現場の野山から逃げるようにして下山し、その後姿を消した。

また事件前日まで現場近くの神社付近で犬を連れてうろついたり、事件のあった翌日から急にブラブラするのをやめて仕事に精を出すなど、急にまじめさを装うなど不自然な点が目立っている。

二人のうち特にAは性格が粗暴で、これまでにも度々けんかを売るなど不良仲間でも”空手の強い暴れん坊”として通っている。

特に捜査本部が重視するのは、殺された二人にこぶしで強く殴られた傷跡が数多くあることから空手のできるAに疑惑が強まった。

捜査本部は引き続き二人の当日のアリバイを調べるとともに、近日中に呼んで事情聴取する。」


事件後、夜に二人が一方の自宅前でヒソヒソ話をするなどの姿が目撃されていたという。

警察は、この二人の当日のアリバイや、凶器となった文化包丁との関連を追及したが、結局、犯人との確証を掴むことはできなかった。
(「二人が勤務していた建設会社の社長が、当日の二人のアリバイを証言した」との情報あり)


6. 正体不明の男二人組


「年齢25~30歳くらい、白いシャツでジーパン様のズボン、手荷物なし」という、「ハイカーには見えない男二人組」が、被害主婦二人の入山直後(約10分後)に山入りするのを、近くの竹やぶで作業をしていた山林所有者が目撃していた。

目撃時刻は、5月23日の午前11時半ごろ。

事件後、この二人から捜査協力の申し出などもなく、正体は不明のまま。


その他、当日現場付近の情報:


・5月23日(水曜日)の平日ではあったが、山菜取りシーズンということもあり、当日は15~16人程度が入山していた。


・殺害現場となった里山のふもとに「寂照院」という寺院がある。この寺院近くの空き地やすぐ傍の登山口に、乗用車やライトバンなど5~6台の車が停められているのが目撃されていた。(被害女性二人も、この「寂照院」前の畑に自転車をとめて入山していた)


・登山口近くの宅地造成地(河陽が丘と思われる)では、大阪府豊中市から、手配師によって送り込まれた40数名の作業員が造成工事に携わっていた。



---------- 11月8日追記↓ ----------



長岡京ワラビ採り殺人事件3


殺害された二人の主婦のうち一人は、全身に手拳で殴打され、あるいは蹴り上げられたような30カ所にも及ぶ皮下出血の痕があり、あばら骨は9本折られ、肝臓が破裂していた(直接の死因は両手で首を絞められたことによる窒息死)。


もう一人も、全身50カ所に手拳~蹴りなどによると思われる皮下出血の痕があったが、直接の死因は、刃物で刺されたことによる失血死だった。


1979年5月25日の遺体発見時(失踪2日後)、左胸部にはまだ包丁が突き刺さったままになっていたが、それは左第四肋骨を切断し、心臓から肺にまで到達していた。


犯人は軍手か何かをして犯行に及んだのか、包丁からは指紋が検出されず、また、包丁には製造会社の銘もなかった。


警察が調べてみると、この包丁は、岐阜県関市で作られた7万本のうちの一本であることがわかった。


ただし、事件の数年前に製造中止となっていた型で、無銘のままアウトレット品として流通させられたものと推測された。


地図の右上のほう、赤枠で囲まれた部分が関市となる。(名古屋の真上)


「刃物祭り」があるほどの刃物で有名な街だが、関市の刃物と言えば「関孫六」を連想する人もいるかもしれない。


「関孫六 銀寿」


世田谷一家殺害事件で使用された柳刃包丁がこれだった。


「悪いことによく使われている」というのではなく、「関市印」の刃物は、それだけ日本全国で使用されているということかと。


刃物がないと困るだろうということで、関市も最近、こんなPRムービーを作っている。ご存知の方も多いのではないだろうか。


https://www.youtube.com/watch?v=AjRPdeHCZwA
(関市PRムービー「もしものハナシ」、ちなみに関孫六についても、Youtubeに多数あり)


話を戻して、長岡京の件に関していえば、この世に刃物があろうとなかろうと、この凄惨な事件は起きたと思う。


なぜなら、この事件の主たる凶器は刃物ではなく、どうやらそれは犯人自身の「拳」であり、「脚」であったようなのだった。



---------- 11月7日22時追記↓ ----------



長岡京ワラビ採り殺人事件2



ワラビ採り主婦二人の殺害現場となったのは、長岡京市奥海印寺にある通称「野山」という低山の山頂付近雑木林。(現場を、通称「西山梅林」とする当時の新聞記事もある。)


現場一帯では、事件の数年前からタケノコ泥棒が横行していた。

タケノコを掘り起こすのではなく、地上部分のみを包丁で切って持ち去るという、荒っぽい手口だったという。


殺害された二人のうち、一人の胸には、包丁が突き刺さったままになっていた。


犯人の遺留品と思われたが(指紋は検出されず)、この包丁には、画像のように刃に対して垂直方向に多数の傷がついていたという。

何かの芽や茎を切るため、砂利~小石混じりの土中などに突っ込むような使用法をしていると、似たような傷がつくと思われる。


新品のスコップなどで、同様の経験をしたことのある人も多いのではないだろうか。



---------- 11月7日14時アップロード↓ ----------



長岡京ワラビ採り殺人事件1


「奥さん、ワラビ、採れますか?」


事件の約1年前、殺害現場近くの雑木林で、一人の主婦がワラビを採っている最中、ふと目を上げると包丁を手にした作業着姿の男が立っており、そう声を掛けてきた。


主婦は咄嗟に飛びのき、走って逃げたという。(画像は想像図)


ところで遅まきながら、先日放送したTBSの


「水トク! 緊急特別企画 TVの前の犯人に告ぐ 全国包囲網 ザ・鑑識!」


というのを見てみた。


いつもの警察24時系とは少し趣の違う内容で、過去の重大事件をいくつか取り上げ、犯人に辿り着くまでの捜査の過程~鑑識に焦点を当てており、めちゃくちゃ良い番組だった。


こういうの定期的にやってほしい。