小説の中での家族像の変化③
では、家族小説として括れない、その他の小説に登場する家族像は、どうだろうか?
そこで、佐藤友哉「子どもたち怒る怒る怒る」(2005年)に収録されている短編小説「大洪水の小さな家」を取り上げたい。
(佐藤友哉「大洪水の小さな家」というタイトルを聞いて、NHK教育で放送している海外ドラマ「大草原の小さな家」を思い浮かべる人もいると思う。「大草原の小さな家」は開拓時代の家族像を描いているドラマである。そういう点から言って、佐藤友哉「大洪水の小さな家」を家族小説として読むことも可能だろう。しかし、この小説は最近の小説の中での家族像をよく表していると考え、家族小説として括れない、その他の小説として取り上げた)
この話は不意に洪水に襲われた家に取り残された三兄妹(兄11歳、弟8歳、妹は幼稚園児)の話である。一読して、すぐに気がつくのは兄妹が兄妹だけで完結していることを幾度も宣言していることだ。
「僕たちは僕たち以外を必要としない」
「僕たちは僕たち以外を求めてはいない」
「僕たちが完結していることに、外部に興味を持っていないことに、他人を気にしていないことに、他人を愛していないことに、両親を求めていないことに、それを勘づかれてはならないと思って幸福な家庭の子どもを演じていたことに」気づかれてはならないと、何度も何度も繰り返し、兄妹だけで完結しているという宣言がある。しかし、突然の洪水で兄妹の完結した関係は壊れてしまう。なぜなら、妹が洪水で死んでしまったからだ。しかし、語り手である一番上の兄は、死んだ妹を見つけ、完結している兄妹の共同体が壊れたことを知っても、ほとんど何とも思わない。
そして、以下のように続ける。
断言できた。
悲しくない。
え?
えっ?
なぜだ?
どうして?
僕は何も必要としていなかった。
僕は、僕が存在していればそれだけで良かったのだ。
僕は僕だけで満足している。
それ以外に何もいらない。
この主張は、私はとても強く共感する。私だけではなく、私と同世代のある感性を持っているものは、とても強く共感すると思う。私が共感する理由は、おそらく私のひきこもり的な部分が反応するからだろう。
この小説で描かれている主人公は、他者と交流することがない。社会的でない。外に出る必要はない。外へと出るきっかけもなく、それを得る必要もない。小学校へと行っているが、小学校へも行く必要がない、と語っている。ひきこもりと同じように描かれている。
このように、主人公を含む狭い世界観が小説を覆っている。具体的に言えば、この小説は、読めばわかるが、両親が登場しない。これだけ、兄妹の関係性にだけ述べていても、両親が登場しないのだ。もちろん、厳密な意味で、両親がいないと述べられているわけではない。主人公は、洪水に巻き込まれるまで、目を覚まさなかったが、その理由を母親に毒を盛られたからではないのかと疑っている。このように、文字としては登場する。しかし、現在形で語られる主人公の目の前に登場人物としては現れない。
これが最近の小説に登場する家族の傾向のように考えられる。
つまり、登場人物同士の組み合わせの完全さ、完結性を求めて、狭い世界観を形成し、社会や世間という外部を切り離す。社会化された共同体(家族)では描くことができない人物間の濃密な関係性を描き出している。その結果、家族が描かれていない。生活感がまったくない、という特徴がある。
例えば、
テレビドラマ化もした白石玄の「野ブタ。をプロデュース」
(けど、テレビドラマと内容が全然違う)
芥川受賞作、綿矢りさの「蹴りたい背中」
(これは前に、蹴りたい背中を異常に読む① や② や③ で書いた)
同じく、芥川賞受賞作、金原ひとみの「蛇にピアス」
(存在の耐えられないくらい軽い自分という存在を、身体改造することによって変革していく物語であるが、神に近づきたい女性の物語としても読める。『蛇にピアス』には、人を殺したと思われる人物が二人、主人公の彼氏のアマとシバさんが登場する。アマは本文中で「アマデウスのアマ」だと語り、シバさんのシバからはヒンズー教の破壊の神、シバ神を簡単に連想できる。ピアスやタトゥーは成人への通過儀礼、あるいは神に近づく行為として昔は存在していたことと、本文中の会話で神に関する話を主人公らが何度も言及していたことから、本人は神に近づきたい女性の物語を意識して書いていると思われる。水曜wantedというラジオにゲスト出演したとき、イタリアでこの作品が翻訳され、日本の風俗小説として紹介されることについて、本人が違和感があると言っていたことからも、神に関する物語を読んで欲しいのかもしれない。なお、佐和はこの話を面白いとは思わなかった)
乙一や西尾維新の作品は、いま述べた特徴を含んでいる。
(この二人については、作品を読んでくれたほうがよくわかる。乙一に関してのお薦めは「しあわせは子猫のかたち」、西尾維新に関しては「きみとぼくの壊れた世界」。乙一に関して、この作家、最悪!!! と思いたければ、角川スニーカー文庫「きみにしか聞こえない―CALLING YOU」に収録されている「華歌」を薦めます。何故、最悪かというと、この作品をよく読めばわかります)
佐藤友哉の「大洪水の小さな家」は、「サザエさん」のように、兄や妹が集まり、その日常を描く。しかし、兄や妹といった家族を描いているのに両親を描かない。このように、家族小説ではない小説中の家族像は、両親について描かれず、小説の中から、家族像が消えていっている気がする。
しかし、小説の中で家族(主に両親)を描かないからといって、小説家が両親と仲が悪いかというとそうではない。例えば、金原ひとみは父親と二人三脚で「蛇にピアス」を執筆したのは有名であり、綿矢りさはストーカー騒ぎのときに家族ぐるみでガッチリとマスコミから守られていた。また、同人ゲームのシナリオを書き、現在、小説も執筆している竜騎士07は、家族の協力を得て、ゲームをつくっている。 (2005年の年末にNHKで放送していたドキュメンタリーによると、父親がマーケティングをやり、母親が経理、弟が絵を描いていた、と記憶している)
私は小説の中での家族が存在しないかのように振舞う姿と現実のべったりとした家族像のギャップに気持ち悪さを感じている。
ここまで、何作か作品をとりあげて見て来た、小説の中での「サザエさん」的な家族像からの変化は、大きく分けて、以下の三つに分類できる。
1. 毎日顔を合せる形態の家族を解散して家族のつながりを存続する。
2. 毎日顔を合せる家族を存続させ、家族が壊れる。
3. 家族の構成員はもはや必要なく、家族がいないかのよう家族像。