そうじゃないと、誰のために生きているのか分からないだろ。


これは俺の人生だ。

これは俺の人生だ。

これは俺の…



今まで、誰かになりたかった。

けど、これからは自分自身にならないといけないのだと思う。


目標とする誰かを目指して、それに同一化しようとするのではなく、自分自身を作り上げるのだ。


俺が本当にしたいことは何だ。

そして、本当になりたい自分は何だ。


本当になれる自分は何だ。

なれそうにもない自分もいる。


自分を好きになるために、理想に追いつこうとするしかない。

差し当たり、食べなくても落ち着いていられるほどの集中できる業務が欲しい、というのがある。

集中していられれば、痩せれますしね。取り合えず、痩せたいわ。そんな感じ。

生きてはいます。

しかし、自分が欲しいものは個性です。
何者でもない自分になることは、辛いです。

理由は、親との関係が大きいでしょう。

親子関係というのは、本来は互いに個性的な関係なはずです。
要するに、互いにかけがいのない存在として扱われるべきものだと思います。

だからこそ、ブランド的価値や数字によって存在価値が揺らぐべきものではないはずです。

しかし、うちにはそれがない。

試験の結果や、容姿の問題によって、両親から拒否されることは往々にしてあるし、最近は妹がビリヤードによって結果を出し続けていることに狂喜乱舞する父親です。

つまりは、試験や試合で上の順位(願わくば1番)になったり、社会的地位の高い職業につかない限り、一人の人間として認められることがないのです。

もう少し正確に言うならば、そうでないと認められることがないと、既に自分の中に刷り込まれているのです。実際には、実績による評価が8割の、個性2割くらいは残されているかもしれません。
しかし、例えそうだとしても刷り込みはなかなか取れません。

だからこそ、埋もれた瞬間に「死」。

肉体的な死ではなく、精神的な死を感じるのです。
精神的な後ろ盾のない、個性がないコピー人形に成り果てた感覚です。

その時は自分に生きる価値なく、ゴミクズになったような感覚。
だから、自分は自分を粗末に扱うし、自分を救えなくなる。


必要なことは、自分を個性的な存在と認めてくれる相手です。

実績によって他人に認められることは、一瞬の安楽のために望んでいる一方で、心の奥底では望んでいません。
なぜならば、そこで認められるということは、実績が認められているだけであり、自分の個性が認められているわけではないことが浮き彫りになるからです。

結果を出せば出すほど、周りが必要以上に騒ぎ立てるのが見放されたみたいで、苛立ちになって、最後には全て壊してしまいたくなります。


自分と似たような人は、結構いると思います。
自分が階段を昇ってるように思っていても、それは十三階段だったりするかもしれませんよ。

目指している階段の頂上は、案外いいものでもないのかもしれない。
昇りきった階段の先はなくて、見渡す限り砂漠が広がっていたような、そんな感覚が待ち受けているかもしれません。

そして、最後には呆然とする。

「本当は、自分は何が欲しかったのだろう」

って。


数字の成功とは、本当に必要なのでしょうか。
それでも欲しい人は欲しいものですから、人間の根本的な欲求なのかもしれませんね。


それはともかく、どこかで自分が唯一無二の存在であることを認められる場所がないと、自分は死にます。精神的に死にます。

それは自然に与えられなかった分、自分で作り上げていくしかないんですね。
何かを残さなきゃ、マズイ気がしてなりません。


…完全にノイローゼですなあ。
治す気はあります。乗り越えたら案外、後々になってバカらしくなるもんなのかもしれませんね。