56年前の夏休み、小学6年生の少女が、橘通りから江平町までの街並みを一軒一軒、写生しました。 宿題として提出され、長い間、スケッチは担任の先生が保管されていたようです。

 

そして半世紀を経て、新聞に持ち主を探す記事が出て、ご本人が見つかり、同窓会で旧友たちが 絵に描かれた店を訪ねて当時を再現する計画が持ち上がり、8名の御仲間のボランティアにより、一軒一軒尋ね歩き、質問して、その当時の商店名とスケッチが再現され【昭和絵巻】として出版されたのでした。

 

 

表紙の帯の文章を、一部引用させて頂きました。

これは宮崎市にお住いのA子さんが幼い頃の夏休みの宿題の、作品としてお描きになった画集のお話です。彼女の家の御商売は日用雑貨屋さんで、病弱なお父様に代わって、お母様が中心でお店を経営され、お父様はラジオの修理などなさっており、その部品を買いに行ったり、修理品のお届けなどでお子様がお店のお手伝いをよくなさっていたようです。 夏休みに、お父様がお子様に提案されたのが、宮崎市では一番賑やかな橘通り辺りを、配達の役にたつように、地図代わりのスケッチする事だったのでした。

 

時にはスケッチに行くのに付き合ったりしてくださった作品は 夏休みの終わりに先生に提出されて、お父様は其の2年後、病でお亡くなりになったそうです。

 

 

 

半世紀の間、忘れられていたそのスケッチ帖を保存しておられたT先生が、新聞に其の作者を探す【尋ね人】に投稿されて、其れをご覧になったA子さんの息子さんが通っておられた小学校の PTAサークルの御仲間が油絵をなさっているA子さんに、【もしかして、貴女は橘通りの家並みを描いた事ある?】とお尋ねになった事で画集が見つかり、ご本人の手元に戻ったそうです。

 

 

 

画集は市の中心を流れている あの有名な大淀川に掛かっている 【橘橋=たちばなはし】の素朴な風景から始まっています。

すぐ傍には 橘公園があり、大通りを順々に調べ、懐かしいお店知らなかったお店やビルデイングの半世紀前の姿が、素朴に、心を込めて描いてあり、昔、宮崎市の近辺で生きておられて、その様子をご存じだった方には、懐かしい風景であり、昔を思い出すと脳が喜ぶそうですから、心温まるこのお話を 私のブログでぜひご紹介したくて、同窓会名簿で住所を調べて、ご本人に手紙で連絡を取らせて頂きまして、翌週には、無事に了解を頂きました。

 

 

A子さんは私の一級上になる高校の先輩になります。 これをお書きになった頃は未だ、小学生で居られたのです。

 

私は小学時代は、まだ福岡市に住んでおり、6年生の秋に 突然父から【来年から家族全員で宮崎に移るので、中学は宮崎の付属中学校を受験するように。】と言われて、福岡で級友たちと一緒に市立の中学に入る物と思って居ましたので、何を勉強して良いのか?今と違って県外からの中学受験のための資料などない時代でした。姉は同じ中学の3年に編入試験を受けたのです。 

言わばよそ者、でも二人ともに無事に合格して中学3年間過ごして卒業し 級友百数十名ほど一緒に近くの県立高校に進学しました。同級生も多くて、6年生の中高一環校に入った気分でした。

 

其の高校の弦月会という同窓会の集まりが色々な形で開かれているのですが、現在、A子さん達の学年は高校の11回生だそうで、2年に一度集まって旧交を温めておられ、現在は集まる時に、趣味などでお作りになった自分の作品を持ち寄っておれら、 A子さんの画集のお話をお聞きになったお仲間が、懐かしい風景画の画集を皆で出版しましょうと話されて、協力されて2008年の12月には初版が出来上がったそうです。翌年には2 刷が発行されています。


 

 

 

一軒一軒訪問されて、【あの頃、橘通り、江平町は輝いていた】と昔のお店の名前は勿論、お年寄りから聴き書きされた、昭和27年頃の宮崎の繁華街の生活の様子や大火事があったこと、宮崎神宮大祭の様子から、映画館の話、デパートは橘百貨店と山形屋の二軒あったお話など、 古き良き時代、輝いていた宮崎の橘通りと江平町のお話を伺って、丁寧に書いておられます。 御仲間たちが編集にお手伝いされて、中には途中で絵巻の完成を待たずに、鬼籍にお入りになった方もお二人あったようです。

 

 

 

 

高校11回目の卒業なので(いちいち会)と名付けられて、皆で集まり資料を持ち寄っての、会議や編集作業はどんなにか楽しい作業、心弾む時間だったかと、 心が温かくなりました。

 

 

 

我が家は繁華街から少し離れた文教地区に住んでいましたので、歩いて江平町のバス停まで行き、其処から宮交のバスに乗って、橘通りのデパートや商店に行くのが常でした。 毎日のお買い物は近くにお店が無くて、江平の通りに面していた大西商店の方が【御用聞き】に来て下さっており、時には別のお店の買い物までしてきてくださっていました。 庶民の家ですから 【毎日は注文はないですよ】といってもお兄さんは必ず、一日一回は顔を見せて、祖母か母と話しをして、時には我が家で新聞読んだり、雑誌を読んだりして過ごしておられたのを思い出します。のんびりしていた時代だったのです。

 

娯楽の少ない時代です。学校から映画に連れて行って頂く事もあり、その他に母が娘2人を連れて映画館に時々出かけていました。 その頃は危険な所という場所もなく、それでも映画館の周辺には 【一人で出掛けて来ては駄目ですよ!】と言われておりました。

 

 

 

 

夏休みになると博多の母の里に行かせてもらうのですが、日豊線だと小倉で乗り換えがあり、間違うと危ないというので、宮崎駅から吉都線周りの一両が日に一本だけ鹿児島本線と繋がって居り、夜遅く宮崎を出て、朝、博多駅に着く夜汽車に乗るのが唯一の県外への子供だけの旅行でした。

 

 

 

宮崎の街で、私が一番に覚えたのが 西村楽器店だったような気がします。ハーモニカの講習会に伺って以来、楽譜を買いに行き、レコードや楽器を観に行き、バイエルやソナチネを買ったのもこのお店です。 其の内にピアノが習いたいと言い出して、オルガンで稽古をして先生のお宅に伺った時はピアノでレッスンを受けていたのでした。

 

高校時代、クラブ活動で親しくなった女友達のご自宅が橘通りの商店で、時々遊びに行きますと、お店の中を通り抜けて母屋の方へ行くのが恥ずかしくて、それでも彼女に会いたくて、時に出掛けていました。江坂商会?と言ってたかな???

 

 

A子さんのスケッチの他に、きっと宮崎で思春期を過ごされた方には懐かしいお店や会社のお話が満載ですが、私はデパートの橘百貨店と山形屋位しか、覚えておりません。

いちいち会の方々が調べて下さって、スケッチの後には解説が沢山入っておりますし、巻末には詩人の杉谷昭人氏が年表と感想をお書きになって居ます。

 

 

 

今は何処の地方都市もそうですが、すっかり輝きを失っており、シャッターが下りているお店も多く、かって、輝いていた時代とは

見る影もなくなっている処が多いようです。

 

がITの時代になり、遠隔で仕事が出来、自宅でも世界を相手に御商売が出来る時代になりました。

年老いると故郷が懐かしくなり、都会からUターンして故郷に帰って暮らす方も多くなっていると聞きます。

 

そういう私も47年間の米国暮らしで、頑張ってきましたが終の棲家は日本が、住み慣れた場所が良いと永住帰国しました。

 

宮崎にはわずか6年しか住んでおりませんが、一番輝いていた

青春の中学時代も、高校時代も伸び伸びと過ごさせて頂きました。クラブ活動 も、コーラス部、茶道部、ESS部、其れに郵便友の会の組織にも入れて頂き、郵便局の方々とも親しくさせて頂きました。

 

青春期を、 この町で過ごした事、 クラブ活動では一年先輩の方々に仲良くしていただき、他の高校生の方々との交流も得ました。 有難かったと思って居ます。
 

私は半世紀も日本を離れていましたのに、忘れずにいて下さる青春時代の女友達数名は、今だに懐かしがってお手紙やメールで交流を深めております。

 
実はこの同窓会全体の会員名簿の最新版にて、私は物故者に入っており、その間違いに対する事務局の対応の仕方は冷たく
感じました。 【ああ、矢張り外者に対しては、宮崎の人間でなければ冷たいものだな。】と諦めておりました。 私は現在の場所で精一杯、思った通りに生きて行けば、それでいいのだと思い直しておりました。
 
そして この昭和絵巻を後輩のM氏から 見せて頂き、じっくりと拝見して、皆さんの文章を見せて頂きまして、やっぱり昔ながらの純朴で心優しい宮崎人がまだおられる事を、再認識して心がほっこりと、嬉しくなりました。  
 
永住帰国に際し、本はごっそりとお好きな方に貰って頂き、老後に不必要な物や電気製品、家具なども含めてトラック二台分、処分してきました。 今では出来るだけ読みたい本は図書館を利用して、狭いマンションには置かずに、買って読んだ本は皆さんに差し上げています。でもこの本だけは 買わせて頂こうと思って発行元に連絡を取ってみましたが、10数年前の発行の書籍で、中身はあるそうですが、表紙がもう無いそう  【申し訳ありませんが、お送りできません】とのお返事が発行元の宮崎の出版社から来ました。
 
いちいち会の皆さん方の中にある、古き良き時代だった宮崎の思い出が、こういう形で蘇り、それぞれの脳がイキイキとしているのではないか?と思うとほほえましい感じで嬉しくなっています。  A子様、ありがとうございました。