ご主人様のリチャード氏の許可を頂いて、彼の亡き妻、杏子さんとの事を書かせて頂きます。興味のない方はスルーしてくださいね。

 

 

ロスアンジェルスに移って間もなく参加した、婦人公論友の会で出会った日本人の友人でした。歳は私の方が少し上だったと思いますが、あまりはっきりとは覚えてない、如何でも良い位の古い古いお友人です。

 

お姉様が米国人と結婚されて東海岸にお住まいで、その縁で渡米されてグリーンカードを取られて、ロスに移り日系の銀行にお勤めでした。ご両親はインテリのご家庭だったようで、余り御実家の事は話されませんでしたが、出版社をされたいたと伺ったことがあります。 今回、ご主人のリチャードさんのお手紙で祖先の方が江戸時代の徳川家にまつわるご家庭だったそうです。

 

こういう写真が残っていたようです。お父様か?お祖父様かと思われます。女の子はきっとお母様ではないかと思われます。

 

 

付き合い始めて直ぐに米国人のボーイフレンドおられて、同じ銀行のオフィサーとの事、を聞いていました。

 

今回 彼と彼女が終の棲家として住んでいたVacation Village【休暇】は、広い土地のあるアメリカらしく、5000所帯ほどの住民が住んでいるゲートコミュニティーで、高齢者専用の、ここだけでも市になるほどの広大な土地の場所です。ゴルフ場は勿論、テニスコートや、劇場、娯楽設備や教育設備も完備されて、バスも定期的に巡回している高齢者には有難い場所です。

 

この寫眞のお隣に映っておられるのは、姪御さんではないでしょうか? 彼女を頼って東海岸から移って来られたと聞いていましたが、はっきりしません。 親しくはしていましたが、根掘り葉掘りと個人的な事は伺っておりませんでした。

 

彼女とは休暇を一緒に過ごしたこともあるのです。オレゴン州のポートランドに、バラの季節にバラ見物に行った事があります。

ホテルは殿が勤めていた系列のホテルに予約してもらっていましたら、チェックインしたらお部屋に大きな果物篭が入って居ました。あら嬉しい、2泊しましたので、十分に楽しんで見物して、美味しいもの食べて過ごしましたが、帰りに果物が余ってしまいました。【残しても勿体ないわ、リチャードにお土産にしよう。】と彼女が残りを、頂いて帰りました。 だから、私は彼と一緒に住みだしたのを知ったほどです。

 

 

これは其のBFとご一緒の元気なころの彼女の写真です。 彼は眼が悪くなって治療方法がなく、弱視なったとは聞いていました。 引退後、此のビレッジに移り、殆ど見えなくなってしまわれたようですが、本来、とても前向きの方でしたから、それから本を書かれて、出版までされまして、2冊目までは記憶しています。  コンピューターも盲人用のものがあり、その本迄出るのですから、ITの発達は凄いものですね。

 

実は私が英語で、メールを送りますと、其のまま、音声に変換されて彼に聞えるシステムがあるのだそうです。  下の写真が彼らのバケーションビレッジのお部屋の一部です。 此の隣の部屋で彼女の最期の様子を詳しく書いて送ってくださいました。

 

 

ビレッジでは色々な趣味の会があって、彼女はフラダンスのグループに入って居られたようです。 80%の住民は米国生まれる方々だったようですが、日系人の方も多かったし、韓国系の方アジアの方もおられました。 きっとハワイ生まれの方がフラダンスのグループを作って居られたのでしょうね。

 

前列の右から二番目が彼女だと思われます。きっと発表会の時の写真だと思います。 昨年、クリスマスの頃リチャードさんが催された彼女のお別れの会には、此のフラグループの方々がフラダンスを踊って下さったようです。 有難い御仲間でしたね。

 

 

はっきりと彼女の病名は書いてありませんでしたが、頭痛に悩まされておられたようで、ドクターからは 【後、半年です。】と宣言されておられてそうですが、彼女は18カ月、生きて居てくれました

と彼は書いて下さいました。 最後はナース(看護婦)さんが毎日来てくれる ホスピスケアに申し込んで、幸せに旅立たたれた、そうです。

 

 

東海岸にお住いのお姉様は確か、先に旅立たれたようです。

【リチャード より一日でも長く生きて、助けてあげなければ。。。】いつも言っていた杏子さんです。 彼より先に逝くのは、さぞ心残りだったと思います。

 

ご両親も既に亡くなられていましたので、何時、籍をお入れになったのか? 判りませんが愛する人に看取られて、幸せに旅立たれたようです。

 

 

何故、私が杏子さんの事をミルクの杏子さんとお呼びするのか?

もう、時効ですからお話しましょうね。二人で休暇に行った帰りの飛行機の中で、ランチが出たのですが、【飲み物は何を?】とアテンダントに尋ねられた彼女が 【MILK プリーズ】とおっしゃったのですが、田舎の線のアテンダントです、オリエンタルの発音に慣れていなかったようで、何度も聞き返すのです。 

彼女は【ミルク】と発音されているのですが、通じません。 【ミ ル ク】とおっしゃっても、やはりダメでした。横に座っておりました私が【メルク】と申しましたら OKと判ったようでした。彼女は私よりも英語が理解できる方でしたが、 2日間の生活で、日本語をお喋りしすぎて、日本的な発音になって居たのではなかったか?とおもわれます。オリエンタル二人だったなので意地悪で、わざとフライトアテンダントに聞き返された様にも感じたのは私の思い過ぎでしょうか?

 

それ以後、我が家では友人、知人に【KYOKO―さん】が何人かおられましたので、固定電話などで掛かってきましたら【ミルクのKYOKOさん】と殿と私の間では通じるようになっておりました。

 

 
そのリチャードさんから、メールが入ってきました。流石、小説をお書きになる方です。私のように雑な英語ではなく、先生が書かれるような文章は、そのお人柄の素晴らしさが判るお手紙です。
 
一度、我々のシニアコンドにもお二人で、お出かけになって下さって殿とも逢って居らます。  私が英語を忘れない為にも時々、メールを差し上げて、励まして、あちらの世界に行くのが、私の方が速かったら、Richardさんは 元気で頑張っておられましたよと 杏子さんに報告したい物だと考えているのです。
 
杏子さんの人生の最期はとても幸せな物だったことは確かなようです。 Richard さん。 杏子さんの最後の面倒を見て下さって、本当にありがとうございました。