今月末の土日は、母校の高校の文化祭の一般公開があり、昨年に続き行くか迷っています。(昨年はちょうど教育実習期間に被り行ってきました。)


時々写真フォルダを見返した時などに思い出す高校生の思い出。高校一年生の3月にコロナ休校となり、長い休校にあい、高2は文化祭の中止と修学旅行の中止、高3はオミクロン株によりクラスマッチ(クラスごとに種目で競う)が中止となりました。それゆえにあまりこれといった華やかな思い出はありません。

たまに思い出すのが、進学校ならではの他人と比較される苦しみと劣等感です。

進学校では学力、テストの点数、偏差値が最も大きな評価基準。テストのクラス平均点は、皆が大いに気にするとこでした。テストの点数が良ければ、先生から評価されるし、クラスメイトから一目置かれる存在でした。しかし、出来なければ劣等感に苛まれるし、周りから冷ややかな目でみられ、"出来損ないのヤツ"というレッテルを貼られます。高校に集まるのは、中学校でそこそこお勉強が出来る部類だった人たち。それはそれは、中学校の時と同じような集団内での立ち位置は、高校では難しい人がほとんど。一部の勉強が出来た男子達による、威勢よくテストや模試の結果を自慢話、平均点より下だったものの罵り合い、テスト/模試後の「大問⚪︎のあそこなんて書いた?」って互いのちんこのデカさの比べ合いかと思う自慢の応酬。あのホモソーシャルは空気感、とても苦手でした。


私は高校2年生にあがる理系/文系別れた後に配属されたクラスで、落ちこぼれでした。最初の校内テストはクラスで下から3番目、それ以降もそんくらいの順位でした。

課題はもちろん各科目に出されるし、量は多い。英語の文法課題は毎週出るし、古文漢文の単語や文法の小テストが毎授業ありました。模試の志望校には、最難関大学からレベル順に書かせられる。逃れられないテスト、試験、偏差値、学歴主義。


あと、課題を出さない奴は怠け者って風潮が根強くありました。とある英語の先生から、「課題を提出しないということは、それだけ信頼を失っているってことですから、ちゃんと出してください。」と言われたことも。。。課題を出さない罪悪感をこれでもかと仕込まれましたね。


しかし、ちゃんと解こうと思ったら、毎日何時間も勉強しなければ終わらない量。古文、漢文、地理、英語の文法など答えを丸写ししている人がかなり居ました。とにかく出せばいい主義。出さないと成績が下がる。(らしい) だから答えを写してでも出す。


それって学習的にどうなの??って疑問がずっと頭にあった。

提出日の次の日ぐらいに出しに行けば、あ、ギリギリ終わらなかったんだな、って先生は思うかもしれません。ですが、提出する際の先生からどう思われるか、授業前後に渡すには遅れて出してるヤツって周りに見られることや、職員室に入るのも面倒だしで、日を追うごとに提出する気が薄れて、高3の夏前に、自分のペースで終わった課題だけ出して、他は後でやって終わっても出さなくていいやって方針に落ち着きました。



クラスで繰り広げられる、会話。

「やべー、物理の課題全然終わってねぇ」

「ねー〇〇、何点だった?」→「よっしゃ、勝った〜👊」

「最低でもクラス20位は行きたい。(結果が返却されたら)やばいやばい本当にヤバい、ヤバい、ヤバい」

「まじで、今回の化学簡単だった。これで〇〇点行かない奴はバカ」

どれも、結局自分は勉強に熱心であることを呈示したい意図丸見え。時にエスカレートして相手の努力や存在を侮辱する発言を口走っていたこともありました。

周りによく思われたいや、理想的な人物像にあろうとする心の動きを、心理学では随伴性自尊感情と言うらしいです。心理学を学んだみると、これまで何となく捉えていたものに名前がついていることを知れてよい


飽くなきマウンティング合戦が目の前で繰り広げられて、自分はそのカーストに居たくないって思っても、どうやっても組み込まれるしかありませんでした。

お互いがお互い、周りに注意がいくだけに、答案を渡される時の先生の反応、後ろの席の人、通路を通る人にこの恥ずべき点数が見られないか、小テストの採点を隣の人とする時どう思われるのか、また後ろの席から教卓の方は答案を回収する時見られないかと、事あるごとに周りの目線がとても気になっていた。

周りと比べて、比べて劣等感を感じたり、逆にもっと下がいることを強調したら心の安寧を保とうとする。そういう心理が交錯するする場所が教室。正直ストレス。疲れる。


教室の空気を吸うだけで、プレッシャーや圧で疲労する、家に帰れば課題をやらなければ終わらない、終わらなければ結果に響く、課題をやったらやったで、思っていたより時間が掛かり終わらないこと多々。ちゃんと解くこと、答えを写してさっさと終わらせることの間揺れ動くジレンマ。頑張っても終わらない。疲れて寝てしまうこと多々。寝てしまったら寝落ちした罪悪感。仕舞いに、母親から真面目にやってない奴とみられる発破を掛けられる始末。抜け出せない悪循環。

母親は、時に「いつでも味方」「なにかあったら言ってね、いつでも助けになる」などと愛情表現してくれましたが、私がアップアップしている時に、サボってる奴認定してくるし、結局親も他人、ただの口だけかと、自分の期待を裏切られ、大いに"大人"というものの身勝手さに失望した時期でありました。


決められた枠を押し付けられる日々。

完全に心許せる出来る場所がない。勉強が全てじゃないって言葉は、何の慰めにもなりませんでした。

最悪でした、あの時は。。

最悪の時期でもあった高校の文化祭に行きたいのは、当時の先生に、当時何を考えていたのか、どんな生徒に育って欲しいと考えていたのか、現実と理想の差について問うてみたい衝動があるからです。

(最悪といいつつ、学力主義を超えて本来の私を見てくれる先生に出会った事はとても喜ばしいことでした)


しかし当時は、

大人から提示された「あるべき姿」を基準とした評価を自身の価値基準として内在化し、囚われる。自立、主体的に学ぶ、より良い未来のために、って綺麗事ばかり並べて、大人にとって都合よい価値基準を子どもに埋め込み、、馬車馬の如く走らせようとしてるだけなのかよ。

あまりに大きな力の前に従うしかなく、ほんっと、この世は空虚な世界だと失望しました。何を信じればいいのか分からなくなりました。


高校時代は、私にとって世の中に溢れる欺瞞を認識し、疑問を持ち始めた時期、そして他人との比較、植え付けられた価値基準から解き放たれて自由に自己決定する主体として、より良い人生とは何なのか、幸せとは何なのか本気で向き合い出した時期でした。


誰かに認められて確かめられる自身の存在価値ではなく、自らが責任と誇りを持って人生の舵を取ること。正直、高校の時いびりちらしてあの人たち、いい大学、いい職業に就くであろう人たちより、自分は絶対実りある人生を送ってやるって悔しさから込み上げてくる思いはあります。


マドンナが娘ローデスに言った「あなたがこの世界に何をもたらし、何を残そうとしているかが重要なの」と言う言葉は未だに私の中に残り続けています。死ぬ間際に私がここに生きていた証を残したい。考える主体として、間主観的視点を常に持ち、自分にとっての生き方をしたいと思います。



PS) このような学校環境なので、高校に来なくなり退学する人はもちろん居ました。高校2年生の同じクラスに、生真面目で、完璧主義な女の子が居ました。完璧主義すぎる故に課題をきっちりこなしたかったのだと思います。しかし、課される量に対して、モチベーションも時間も、彼女なりに完璧に遂行するには足りず、課題の未提出が積み重なり、成績も低迷している様子でした。(一緒に物理の追試を受けた。)常に余裕が無く顔に表情が有りませんでした。次第に欠席が増え、ある月曜日の欠席を境に火、水、木と休みました。そして、金曜、校門の前で親に送迎されて登校する彼女を見ました。親にどうにか行くよう無理やり背中を押されたのかもしれません。重い足取りで教室に入る彼女。その日は幸い、小テストも何も無く比較的穏やかな一日でした。翌週以降彼女が登校することは一度も有りませんでした。高校3年生に上がるタイミングで高校を中退。それ以降何処で何をしているか全く分かりません。時より彼女の名前をネットで検索して今何してるのか思いを馳せてしまいます。どうか、元気にやっていますように。