一昨日の土曜日に、本市の市民会館にゴスペルのコンサートに友人たちと行った。 

 昨年の12月半ばにアメリカの「グローリー・ゴスペル・シンガーズ」と言う黒人シンガー達を聴きに行き、12月終わりには私が通う歌の教室の先生が率いるゴスペル教室の舞台に行って、なんと短期間に3回もゴスペルを聴きに。

 どんだけゴスペルが好きなんや、と思われるだろうが、好きではない。

 キリスト教の信仰に基づいた歌詞が多いし、英語ばかりでは歌詞も分からない。でも、今の日本では映画「天使にラブソング」以来、人気があるようなので、その人気の訳を知りたいと思って。

 それに今回は私の歌の先生も歌うようだし、無料だし。

 稲村ケ崎の友人を誘うと、「主人もゴスペルなるものを聴きたいと言っているんだけど」と言うので、勿論OK。ご主人は私たちから離れて後ろの席へ。

 今回はゴスペル教室の生徒さんたちと、プロの先生が混じっての合唱で、迫力満点だった。

 

 指揮をしているのが私の先生。

 

 コンサートが終わり、さて帰りましょうと後ろに行ったら、友の旦那がいない。どうしたのかと思ったら、友が言うには「もう合唱の迫力が凄すぎて、聴いていて疲れるから帰るって」だって。

 

 この市民会館の周りにはちょっとした公園がいくつかある。

   なんの桜か、見事な1本の桜。

     

 

 藤沢市名誉市民第一号、片山哲の彫像が市民会館前に建っている。

      

 

 この裸婦像は「まごころ 陶山定人作」

      

 像の後ろにある建物は「旧近藤邸」

      

 

(以下はネットから参照)

 旧近藤邸は、関東大震災の直後の1925年(大正14年)、藤沢市辻堂の松林に別荘として建てられた。当時の和洋折衷の代表的な建物といわれている。建て主の近藤賢二氏没後、所有者が変わり、老朽化に伴って取り壊しが決定されたが、保存を望む声が近隣の住民や建築家から起こる。「旧近藤邸を守る会」を中心とする1年余りの保存運動の結果、藤沢市によって移築保存されることになる。1981年3月、藤沢市民会館の前庭に移築され、今日に至る。

 

 内部に入れなかったので覗き見。

      

 

      

 

      

 

      

   中庭から

 

 コンサート帰りの商店街の花屋で、立派なルピナスの苗の安いのを見つけて、稲村ケ崎夫人と2人、大喜びで苗を2苗買った。

 

 翌朝、早速ベランダの棚の上へ。

      

 

 ベランダにルピナスを置くとき、前に置いてあった花が枯れたので、その後に置こうと鉢をよけた。鉢をよけた後の皿を見て、ギャーと腰を抜かしそうになった。

      

 トカゲ? ヤマリ?

 気持ちよく眠っていたのか、彼? 彼女?も慌てふためいている。どうしていいか分からないので、皿ごと庭におろした。

 

 これしきの事では稲村ケ崎の友人なら驚かないだろう。

 昨日、写真が届いた。最近、バードウオッチングに目覚めて庭に餌を置いているらしい。

 リスは分かるけど、鳥の名前が殆ど知らないとか。知っている方は教えてあげてください。

        

 

       

 

       

  一昨日の朝日新聞の夕刊に『“パーマは非国民”非難されても』、というタイトルの記事が載っていた。

 戦時中はパーマをかけると“非国民”と非難されたらしい。

 記事の中の1940年時の写真に「パーマネントのお方は当町通行をご遠慮下さい」と書かれた看板が載っていて驚く。

 1923年にパーマ機が輸入される。その頃、どれくらいの女性がパーマをかけたのかは分からないが、日中戦争がはじまった1937年頃から、パーマは“ぜいたく”“享楽的”と批判の対象となっていったとか。

 今のパーマはパーマ液を用いるがこの頃は電気だった。貴重な電力をそんなことに使うな、ということもあったらしい。

                     (写真はネットから拝借)

 私はこの頃の電気のパーマを覚えている。あんな怖い物は絶対いやだ、と思っていた。時々髪の毛が焦げて、大騒ぎになることもあったようだから。

 1940年にアメリカでパーマ液が開発され、日本では1950年代前半頃から普及し始め、1960年代前半にはパーマ液が主流となったらしい。

 1939年、高知県。まだパーマをかけている人は少ない。

                        (写真は朝日新聞から拝借)

 

 新聞を読んでいて我が亡母のことを想い出した。

 母は1922年生まれで、大阪の下町育ち。母は私と違ってお洒落が生きがいのような人だった。

 下の写真は2枚とも女学校を卒業した1938年頃の写真だと思う。

 ハイ、しっかりとパーマをかけている。洋服もチョーモダン。

 この頃、母が外を歩いていると近所のガキ大将が何人もついて歩いて、“クルクル頭に火がついた”と大声で叫んでいたそうだ。

 ま、そんなことに怯む母ではないけど。銭湯で頭を洗っていると、近所のオバサンが周りに集まって、

「ホントだ、クルクルがとれない」と感心してみていたとか。昔のクルクルは火箸を熱くして、火箸で髪にクルクルを作っていたから、洗うととれてしまうのだ。

 

 この写真は妹弟や従兄妹と撮ったものだが、前列左の母の髪の毛はしっかりとクルクル。お人形さんのような横の従姉は、きれいな直毛。人に何と言われようと気にする母じゃなかったようだ。

 

 この写真は私の父の若い頃の写真で、後方真ん中が父、父の前が祖母(祖母の顔の傷は写真の傷)。祖母の両脇は父の姉たち。多分、1935年頃?

 女性3人は同じような髪形。20代後半の父の姉たちは女学校の先生をしていたので、特に地味なのだろう。

 

 私の両親が結婚した昭和14年(1939年)当時の流行の髪形。

                          (ネットから拝借)

 

 この当時の人でなくて良かった。私、この髪形は絶対に似合わないし、不器用だから上手に火箸でカールやロールは出来ない。

 昨日は毎年恒例の梅見に“常立寺”へ行った。

 

 江ノ電・藤沢駅から電車に乗って江の島駅で下車。ここで鎌倉・稲村ケ崎から来る友人と待ち合わせ。

 乗った電車は、その友人が好きだという床が板で出来ている古いタイプの江ノ電だった。

 

 江ノ電・江の島駅

 

 江ノ電の江の島駅に来たら、この写真を撮らなくては。

 ピコリーノたち。(通称江のピコちゃん)

 ピコリーノサポートさんたちが、月初めには手作りの服を着せている。

 

 江の島駅から常立寺までは歩いて5分ほど。

 途中に“湘南モノレール”の始発駅がある。あ、モノレールが通った!

 懸垂式モノレールは、日本にただ2つで、もう一つは千葉都市モノレール。

 

 常立寺の門前

 残念ながら門前の梅はまだ3分咲き。

 

 門前の通りには商店も多いが、この店は昭和の匂いが。

 

 看板の文字なんてすっかり消えている。

 飾り雛など手作り品を売る店のようだ。

 

 店番をしていた、どう見ても70代にはなっていると思えるおじさんに、写真を撮る許可を頂いたが、そのおじさんがこれ等を作っているようで驚いた。

 

下の写真の作品は半纏があるので大きく見えるが、手のひらサイズ。

 

 色々と撮らせて頂いたので、手作りのマスクだけ買わせていただいて、店を出る。

 

 門の所から本堂を見る。

 

 境内にはいるなり、モノレールが音をたてて通過した。

 

 境内も狭い、小さなお寺だ。

 小さなお寺でも歴史は古い。

 

 常立寺は、今は日蓮宗の寺だが、元は真言宗の寺だった。近くの瀧ノ口の刑場で処刑された刑死者を弔う為に出来た寺。1275年9月時の執権・北条時宗は蒙古の国使5人を滝の口刑場で斬った。死骸はこの常立寺に埋葬され、ここに5基の五輪塔が建った。これを元使塚と言う。

 本堂前を左に行くと五輪塔がある。

 五輪塔に青い布が巻かれているのが少し見える。(青はモンゴルで英雄を意味する色)

 

本堂前を右に行くと、この日の目的、しだれ梅が。紅白の梅は満開だが、緑萼梅はつぼみだけ。

 

 梅の前には赤い毛氈を敷いた椅子が並べられ、300円で熱いほうじ茶とクッキーが頂ける。

 

 

 広い梅林も良いけど、この小さなお寺で赤い毛氈の上に座っての梅見物もなかなか風流。

 あ、メジロが飛んでる。(赤い矢印のところ)

 

 本堂の中。モンゴルの青い布も祀ってある。

 

 毎年、大相撲のモンゴル出身の力士たちがお参りに来るらしい。

 去年は照ノ富士が来たらしいが、今年は誰が来るのかな。

 

 庫裏の中庭の梅も見せてくれるというので、庫裏に入る。

 

 

 中庭の梅も風情があったが、私が気にいったのは庫裏のふすまの絵。

 

 なんか落ち着くこのお寺。また来年も梅を観にこよう。